創作と批評

大学生なので最近はレポートを書いていますが、論題が「アニメーションにおける記号的表現」だったりして、普段ブログに書いていることとちっとも変わりありません。本当に僕は大学生なのだろうか。フナムシエチゼンクラゲが「お前は大学生だ!」と言われて「ああそうなのか」と思い込んでいるだけではないだろうか。というわけでこんなの読みました(脈絡なし)。

日本の漫画におけるリアリズムと戦中漫画の兵器描写をからめて、イデオロギーと技法の関連性について論じるくだりは結構興味深い。時間が経って技法からイデオロギー性が骨抜きになったのだけれど、それによって逆にどんなイデオロギーにでも利用されてしまう、もっと自覚的になれという主張にも共感できます。
しかし萌え=ポルノと断じてしまうのはどうでしょうね?実作者である大塚英志氏にしてみればポルノのつもりで創作を行うのでしょうが、作者の意図がそのまま作品の解釈になるわけではなく、読者とか出版社とかその他諸々で作り上げる「解釈共同体」が萌えとポルノの境界線を引くわけで。「俺はポルノだと思う」「人それぞれですね」で済む問題でもありません。
この本の全体を通して言えることですが、読者の存在が希薄すぎるような気がします。先述した戦中漫画のリアリズムにしても、作者がどういう圧力を受けた結果リアリズムを重んじるようになったのかという話に終始している。創作に関わる人間の論理ですね。
僕が大塚氏を全面的に支持できないのもそのあたりが原因で、自分が創作をするものだから、その際に都合の良いようなものばかり「常識」化しているように感じられます。批評は誰のために行うべきか?答えはきっとひとつではないでしょうが、自分が誰に向いているかは知っておきたいところです。