『コードギアス 反逆のルルーシュ』の方向性とイデオロギーの問題

コードギアス』の14話が中々面白かったので少し感想みたいなものを書いてみようと思います。言うまでもなく現在進行形の作品なので、今後の展開によっては、それどころか次回の展開によっては非常にアレですがそのときはみなさんもアレでアレしてください(意味不明)

コードギアス 反逆のルルーシュ 1 [DVD]

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印象的な終わり方をした14話ですが、冷静に考えるとアレは不味いんじゃないかなぁという気がします。これからどうするのでしょうね?ルルーシュもシャーリィも生徒会員のままなわけで。
ただ、そういう矛盾を「あえて気にしない」という選択肢を取るのであれば、この作品にひとつの方向性が見えてきます。それは、視点を限定し、視点に収まらないものは無かったことにしてしまうこと。つまり、あえて狭すぎる視点を持つことで個人を強調する方向性です。
しかし、『コードギアス』は人を駒のように動かす視点、言い換えるなら広すぎる視点も同時に持っています。その視点においては個人の存在が希薄になり、戦闘シーンではカレンとスザク以外は「その他大勢」でしかありません。この2つの視点は共存できるのでしょうか?
結論から言えば、2つの視点は同じベクトルのものであり、矛盾は許容されます。例えば「人を好きになること」と「嫌いになること」という対極にあるものは、「他人に干渉したい」という同じベクトルで表現することができます。「セカイ系」が「わたし」と「あなた」だけを見ることによって、逆に「わたしでもあなたでもない誰か」の存在を明らかにしてしまうように。対極は、ベクトルで考えれば常にひとつのものして描かれているのです。
コードギアス』に戻りますが、限定視点と俯瞰視点は「誰かを観察したい」というベクトルにおいて同一のものです。しかし、通常の作品では対極にあるどちらか片方だけが表に出て、もう片方は隠喩的にしか登場しません。『コードギアス』において両方が表に出ていることの意味は何か?それを考えてみる必要があるでしょう。
先述したとおり、「好き」という観念は「嫌い」と同じもの、というか、「嫌い」があるからこそ「好き」が存在できるわけです。そのため、批評において「好き」という概念を否定したければ、「好き」の中に隠れている「嫌い」を引っ張り出してその矛盾を攻撃してしまいます。
コードギアス』においては最初から矛盾が表に出ている。だから、あらためて批評家が攻撃するような余地がないわけです。自分で自分を傷つけて、相手に傷つける余地を与えない。なんかマゾっぽいですね……。
どんな作品だってイデオロギー的なものを持っていますが、『コードギアス』はそれを自分で攻撃することで意味をなくしてしまいました。無敵といえば無敵ですね。どんなアニメでも「お前の考えは偏っている」と攻撃できる上に、自分は攻撃されるイデオロギーを持たない。
その結果として毒にも薬にもならない作品になるのかもしれませんが、まあ、それはそれで。