ローゼンメイデン・オーベルテューレと「人物を描くこと」

少年が引きこもったり、人形が闘ったりツンツンデレデレしたりする大人気シリーズの第3期……なのですが、時系列的には第1期と第2期の間、さらに回想で第1期よりも前を描いていること、そして主人公はいつもの真紅ではなく水銀燈、とかなりの異色作だったりします。
ストーリーは主に、これまでのシリーズで敵役だった水銀燈がいかにして真紅と敵対するようになったかを描く、これまでの物語の前史的なものです。きちんと時間の流れを意識して登場人物の性格が少しずつ変わっていること、音楽はこれまでどおり、作画もまあまあ、と文句をつけるところは特にありません。要するに面白い話でした。
ただその一方で、何ともいえない寂しさを感じたのも、また事実です。すごい凄いと思っていた水銀燈の限界が見えてしまった、という感じ。
実は、トマス・ハリスの『ハンニバル』を読んだときにも同じような寂しさを感じました。

ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)

ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)

「史上最高のサイコ」とまで称されたレクター博士ですが、彼の生い立ちが詳細に描かれることで「これこれの理由でレクター博士はこんな人間になりました」と彼を理解したつもりになってしまった。もちろん「理解した」というのが錯覚に過ぎないということもわかっていますが、今までのような凄さを感じられなくなってしまったのです。
まあ、トマス・ハリスの作品は犯人像を徹底的に描くことに特徴があるわけで、僕の意見は難癖としか言えないわけですが……。
それとは対照的に、森博嗣が生み出した「真賀田四季」から僕が感じる「凄さ」にはあまり変化がありません。
四季 春 (講談社文庫)

四季 春 (講談社文庫)

彼女が登場している作品は、森博嗣のデビュー作『すべてがFになる」から、最近文庫になった『四季』までの、え〜っと……8冊(もっとある?)。それなのに、彼女が登場する作品を全て読んでも真賀田四季とはどんな人物なのかがさっぱり見えてきません。彼女の一人称で物語が語られても、彼女自身が自分のことを理解していない、というわけで読者にキャラクターを理解させることを森博嗣は意図的に拒んでいます。
言い換えるならば、人物を描かないことで人物を描いている、と言えるでしょう。
なぜこのような逆説が成り立つのか。僕は、少なくとも物語において「凄さ」を描くということが、「強さ」や「賢さ」のような能力を描くことではなく、僕たちには見えないほど遠くを見つめる「視線」そのものを描くことであるからだ、と思っています。
うーん。全然論理的じゃないですね。


ローゼンメイデンに話を戻しますが、「オーベルテューレ」で「水銀燈」という不思議なキャラクターがどのような動機で闘っているのか、という、これまで明らかになっていなかった「彼女の視線」の先にあるものを僕たちは見つけてしまいました。そのことは視聴者を「水銀燈を理解した」つもりにさせ、かえって彼女の魅力を減じてしまったのではないでしょうか。
理解した「つもり」でしかない、ということを自覚していれば他の楽しみ方も出来るのでしょうが。
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ローゼンメイデンとデカルト(自分の記事)