続編とパロディには境界しかない

デ・ジ・キャラットの続編『ウィンターガーデン』についての話。作品感想はこちら

 つまり、純粋に作品だけを見ていれば作中の少女がでじこだと捉える根拠はほとんどないということになる。ならば、この物語を『デ・ジ・キャラット』の続編と捉えて良いのだろうか?
 どこまでが正統な続編で、どこからがただのパロディなのか。その境界を見極めることはむずかしい。
(中略)
製作スタッフが共通していれば良いというなら、たとえばスタッフの誰かが趣味でゲームを作ったとしたら、それも正統な続編といえるだろうか? ぼくたちはどこでオリジナルとパロディの区別をつければいいのだろう?
 結論からいうと、はっきりその境界を定めることは不可能だと思う。なぜなら、物語の連続性というものは、その作品を体験しているユーザーの幻想にすぎないからだ。
 作り手が連続した物語のつもりで製作しても、もしユーザーが「こんなものは続きとはいえない」と感じてしまえば、魔法は解ける。
 すべては受け手の受け取り方ひとつ。あらゆる意味で正統な続編でも、受け手が連続した物語として認識できないようでは、オリジナルと同じ世界の物語とは言い切れない。
 逆に、愛読者がかってに作った二次創作でも、受け手がオリジナルと同質のものとして受け止めれば、そのひとにとっては同じ世界の出来事といっていいと思う。
Something Orangeより―

非常に難しい問題。かといって、全てを読者に還元する安易な読者還元主義も慎むべきではないか?というのが僕の感想です。いくら読者には自由に解釈する権利があるからといっても、何でも許されるわけではありません。
ギャラクシーエンジェル』と『デ・ジ・キャラット』は同じ会社の作品です、と考えるのは正しい解釈です。キャラクターデザインが似ている、と考えるのも正しい解釈です。だけど『続編です』と解釈したら間違いだということになってしまう。つまり、解釈には社会的な制限がかかってくるわけで、「続編とパロディの境界とは何か」を考えるためには、社会的現実をどう捉えるかという視点が必要になってくるわけです。


そこで僕からは2つの考えを提示してみたいと思います。
まず1つ目は、「現実の作品」よりも先に作品の「役割」を要求する場が存在しており、それによって「現実の作品」の役割も規定されるのだ、という考え。例えば、将棋をする時になって「王将」の駒が見つからず、紙に「王」と書いて駒の代わりにすることがあります。ただし、チェスをする時になって紙に「王」と書いても「王将」にはならない。それはただの紙です。どちらのシチュエーションにおいても材料は紙とインクなのに、「役割」を要求する場(この場合は将棋盤)に置かれることで、僕たちの認識が再構成されていくのです。
この考えを採用すると、作品が続編かパロディかを判断する際に作品内容を判断基準にするのは、あまり意味がないと言えるでしょう。先の例で言えば、「王」という記号が書かれている必要すらなく、筋肉マン消しゴムでもかまわないのですから。重要なのは「続編」という役割を要求する場が存在するかどうかであり、それは純粋な制度的問題となってきます。



2つめの考えは、作品の解釈を作り上げていく制度(解釈共同体)にはすべての読者が含まれているわけではない、ということです。この「解釈共同体」という概念を発見したスタンリー.フィッシュからして、共同体に属する読者を「素養のある読者」と名付け、そうでない読者を意図的に排除しているのですから。
もちろんこの解釈共同体は1つではありません。マルクス主義批評、フェミニズムポスコロ批評etc……と色々あるのですが、それらは常に権力闘争を続けており、最も強いか読者に近い解釈共同体が制度を作り上げるのです。
現在、私たちのほとんどが属している解釈共同体の中で「出版社」や「製作会社」、「作者」が大きな位置を占めていることは間違いありません。そのため、製作サイドが「これは続編です」という解釈を行えば、それは「続編」と認められてしまう、そういう制度が成り立っています。


要するに読者の解釈なんて全然自由ではなく、制度の中に組み込まれていることに対して無自覚でもある、ということ。そこから自由になろうと思うなら、自分だけの解釈共同体を作り上げるしかない。けれどその共同体がメジャーになった時点で自分が制度の中に組み込まれてしまう。なんだかマルクス主義のジレンマみたいで面白いね、という話でした。