はぴねす!

「でも、ちょっぴり幸せな気分……」

お腹いっぱいな感じで見終わりました。それほど目新しくもなければ、洗練されているというわけでもない、標準的な作品です。しかし、「標準的」であるために話したくなることもあるわけで、作品自体への感想ではありませんが、日常と非日常を繰り返す作品構造についての話をしたいと思います。

はぴねす! Vol.6 [DVD]

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この物語は、「魔法」という異質なものが日常生活の中に紛れ込み、それによって起る問題を主人公たちが解決していく、というのが基本的な流れです。
しかし、「魔法遣いに大切なこと」のように魔法という神秘を媒介として標準的な価値観を揺さぶる話ではなく、「魔法少女リリカルなのは」のようにアクションを見せ場とする話でもありません。あくまでも日常のささやかな出来事をつむいでゆく、ラブコメらしいラブコメなのです。特にその傾向は前半に顕著ですが、最終回のラストシーンにおいて日常への回帰が描かれていたことからもわかるように、物語の力点は全体を通して日常>非日常となっています。
では、この作品において「魔法」という神秘はどのような役割を果たしていたのでしょうか?それは「日常」を「非日常」によって定義するためだ、と言えるでしょう。
対象としている作品は異なりますが、『metamorphosis:無意味な日常生活の充実した価値――『DEATH NOTE』と近年のサブカルチャー作品を巡って』は物語における「非日常」の役割を論じたものとして非常に優れた論考です。以下、一部引用します。

こうした平時と戦時との間の往復運動は、『最終兵器彼女』でも描かれていたわけだが、そこでの意味を改めて確認しておけば、それは、ほとんど希薄化した無意味な日常生活の時間を価値あるものにしようという試みであると言える。『最終兵器彼女』で何度も繰り返されるのは「これが最後の時である」という時間の有限化であり、そのことを未来から現在を眺める回顧的な視点が支えているわけだが、こうした有限性が、無意味で代替可能で退屈な日常生活の時間を、有意味で代替不可能な充実した時間に変化させているのである。

ほぼその通りだと思うのですが、僕からもひとつだけ、「非日常」には「日常」を異化させ、その特質なり欠点なりを浮かび上がらせる役割があるということだけ付け加えておきましょう。決してノスタルジックな視線を投げかけることだけが役割ではありません。
例えば「はぴねす!」2話のラストで、主人公がヒロインを背負ってとぼとぼと歩くシーンがあります。なんてことのない日常のワンシーンなのですが、ヒロインが背中に掛けている「魔法の杖」やその他諸々の「非日常の道具」によって、キャラクタだけにとどまらずシーン全体が異化されることになり、そのことによって視聴者は「ありがちなシーン」が、実は非日常に属する「ありえないシーン」であることを自覚する、ということが可能となるのです。
そういった意味で、「物語の中だけで通用するリアリティ」を暴きだすという点でも非日常を挟み込む手法は効果的だといえるでしょう。


うん。つらつらと駄文を重ねましたが、言いたいことはひとつです。
「またハルヒか!」  それだけ。
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