「らぶドル」と物語論

物語論・原型批評と呼ばれる批評の形式があります。
具体例としては「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「浦島太郎」が同様の物語構造を持っていると指摘されていること、他にも同時代の作品については、蓮實重彦によって、井上ひさし村上春樹丸谷才一の作品に共通して登場する要素が指摘されていることなどが挙げられるでしょう。
こうした批評は、道徳や価値観など、作品外部の要素によって批評が左右されることを嫌い、純粋に作品や作品系統の内部のみで批評を完成させようとした、ある意味では科学志向な批評だと言えます。また、複数作品に共通する構造を指摘することで、作品を作者から切り離し、さらには物語における「自我」の存在についても問い直したという点で価値があります。
ただ、個別の作品鑑賞において「『ドラゴンボール』の孫悟空における尻尾の存在は、初期設定に弱点を抱えているという点で、『ワンピース』のルフィにおける海の存在と同じである」と指摘することにどんな意味があるの?というわけで、面白いのですが激しく馬鹿馬鹿しい批評でもあります。
むしろ、この批評理論は創作の現場において活かされています。その代表的な人物が、おたく論者御用達、ご存知大塚英志。この方は物語論における「フォーマット」の存在を創作理論の基礎に据えているわけで、批評においても実学志向です。この人が論壇において低い評価を受けがちなのは、創作論と批評論の無自覚な未分化、そしてそれによる「自身の創作に都合の良い批評理論の採用」にあるのでは、と思う次第。


前置きが長くなりましたが、上述した物語論の立場によって「らぶドル〜Lovely Idol〜 」を鑑賞すると、この作品は作者からも作品外部からも切り離された、実に「物語論的」な作品であると言えるのではないでしょうか。

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この物語の主人公は6人のアイドル候補生。最終的に「らぶドル」というアイドルグループとしてデビューするのですが、彼女たちの前には「第1期らぶドル」や「第2期らぶドル」がいて、その先輩たちとの差異は、はっきりと描かれていません。
言い換えるなら、「第1期」や「第2期」ではなく「第3期」である理由は何なのか、という疑問が生じてくるのです。その疑問が解消されないまま物語は終了してしまったため、どうしてもこの作品についての議論は、登場人物やそれを生み出した製作者の主体性ではなく、自動的に物語を生み出す「フォーマット」という非人称についてのものにならざるを得ません。
さらにその「フォーマット」は「らぶドル」という閉じた系の中で完結しているため、現実からも社会からも断絶されています。では、その閉じた系の中でひとつひとつ共通項を指摘していく?それは上述したように「激しく馬鹿馬鹿しい」。
この記事に示されているように、キャラクタの属性を頼りに作品群を横断する見方というのも確かに存在します。しかし、重要なのは共通性そのものではなく、共通性が何によって媒介され、変形するのか、ということではないでしょうか。この概念こそが古典的な物語論に欠落していた部分であり、「萌え属性」に関する言説において欠落している部分でもあります。
らぶドル」という作品を肯定的に評価をするのであれば、「物語の登場人物における自我とは何か?」という問題を提出したと言えるでしょうし、逆に否定的に評価をするのであれば、「作品を現実からも社会からも切り離してしまった」特権的で偉そうな作品である、とも言えるでしょう。
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