批評のミライ その1

気になる記事を見かけたので、脊髄反射的に反応してみます。

 小説に限らず創作を享受する目的はなんだろうか、と考えたときに、当然その答えはひとつではないのだが、〈楽しむ〉ことと同じくらいに、というよりは完全に別なベクトルで僕にとって重要なものとして、最初から極端なことをいうようだが、〈世界〉を変える、ということではないかと思う。もちろんわざわざ山括弧で囲んだからにはそのままの意味ではなくて、ここでいう〈世界〉はその個々人においての「世界」だ。
(中略)
極端に矮小化した意味で語られる〈世界〉を僕の感覚になじむように書き換えるなら、〈現実〉っていう感じだ。その個人に見えるもの。力づくでその人間の〈現実〉を捻じ切るような表現。
2006-12-19 - hogeより―

さすがに最近では小説から人生の教訓を引き出そうなんていう、あからさまな功利主義を主張する人は少なくなりました。では「小説をよんで何か良いことあるの?」という質問になんと答えようか。そこで出てきたのが上のような考えではないでしょうか。
例えば作品世界での社会制度を見て、逆に現実の社会制度に違和感を感じたりすること、ありますよね。創作は虚構であるにもかかわらず、いや、むしろ虚構であるために現実を見慣れないものに変えてしまう作用があります。
確かにこうした作用を楽しむのも、作品を鑑賞する楽しみの1つではあるのですが、これは読者を限定する考えでもあります。文学から影響を受けることのない、ガチガチに頭の固い人は文学を楽しめないの?とか、逆に批評家は様々な作品を読んでそのたびに〈現実〉を書き換えられているのなら、今更なんの〈現実〉を変えるわけ?とか。
要するに読者の考えをひっくり返すことが作品に与えられた役割だとしたら、読者はいつでも考えをひっくり返すことができるよう、リベラルな人間でなくてはいけません。そして「リベラルであれ」と命じる理論はちっともリベラルではないわけで、矛盾しています。

だから批評家は〈的に当てる〉必要なんていうのははなからなくて、最初からその批評の読者のほうを見る。いかに力のある批評という〈創作〉でその読者の〈世界〉の一部であるその作品を変えるか、というのが目的なのではないかと思う。それができる批評が優れた批評だ。
―同上―

批評と創作が区別しがたいというのはその通りだと思うのですが、では「批評という<創作>」が優れているかどうかはどうやって判断するのでしょう?僕が「罪と罰」に対して「退屈」とか「やまなし・おちなし・いみなし」なんて批評をしても、それは創作だから許されるのでしょうか?少なくとも作家にとってはいい迷惑ですよね。
(僕みたいな)馬鹿がそれをやったら困るから、理論があるわけです。〈創作〉に対する無限定な解釈は慎むべきではないでしょうか。