歴史学の良識と限界

世間には「マンガ嫌韓流」を面白いという人がいるらしい。きっと面白いのでしょうね。

マンガ嫌韓流2 (晋遊舎ムックシリーズ)

マンガ嫌韓流2 (晋遊舎ムックシリーズ)

ところで最近、こんなメールが母を経由して届いた。
「○○大の××教授は北朝鮮のスパイなので気をつけてください」(○○には私の通っている大学の名前が入る)
本当にびっくりした。メールの送り主は大学とは何の関係もない一般人(社会人)である。なんて返信すれば良いか、とても悩んだ。
とりあえず「情報のソースも明かさずに信じてもらおうなんて一寸の虫にも五分の魂!」と論理的かつ適当に返信しておいたのだが、それとも「将軍様マンセー」とか「公安9課の方ですか?」とか「それ何てエロゲ?」とかの方が良かっただろうか。
もちろん真実は知らないし、興味もない。
昨日からの続きだが、今日はナガサキに原爆が落とされた日だ。
そこそこ捻くれた性格をしているので、「アメリカは酷い国だ!」とも「日本軍は酷いなぁ!」とも思わない。それはもう、学問の対象ではないだろう。
できるのは「目的を達成する手段として、それは適切だったか」という評価だけ。それは、とても悲しいことだけど仕方がない。分をわきまえることは大切だ。
アメリカの建前(戦争終結を早めた、アメリカ人兵士を救った)は論外として、本音の方は思惑通りになったのだろう。ソ連は崩壊し、ナガサキ以降原爆は落とされていない。
日本はさっぱりだ。考えうる限り最悪ともいえる結果を出した。私の尊敬する先生は太平洋戦争での日本を「日本は総合的に負けた」と評した。私のスタンスもこれに即している。どこから拙かったか、と訊かれると悩むが。(軍部の暴走、という観点では石原莞爾の責任が大きい。これはまた別の機会にやろう)。
ある人は、東京裁判アメリカの戦争犯罪が裁かれなかったことが不満らしい。あたりまえだ。勝者が勝者を裁くわけがない。しかし、事後法は悪しき先例ともなる。現在進行形で影響が現れているので評価は難しい。
以上のことは善悪を度外視して書いた。これが「分をわきまえて」書ける限界だろう。終戦記念日にはまた何か書くかもしれない。