期待値と政治とアニメーション

何事も規模が大きくなると政治的な側面を持つようになるのではないかと考える今日この頃です。たとえば「大作」と呼ばれるアニメ。
「俺たちが見ている深夜アニメと何が違うんじゃ!ガリガリガリガリ!」
と柱を齧りながら不満を感じるのももっともですが、的の狙い方の違いが大きい。
人々の興味の分布を山型のグラフで表してみましょう。トップを取ることを宿命付けられた作品は、必然的に山の頂点を狙って作品を造ります。他の作品と被っても、外せば負けるのだから仕様がありません。押井守など、どちらかといえばマイナーの世界で活躍した監督による作品が「大作」をつくると興行的にイマイチなのは、やはり狙いのつけ方が違うからでしょうね、たぶん。
この傾向は政治の世界でも起っていて、野党と与党との主張の違いは小さくなる一方です。そりゃあ違ったことを言いたいでしょう。でも、最大公約数の意見を言わなければ選挙に勝てないのだからしょうがない。
こうした最大公約数狙いの作戦が「普遍」となるか「凡庸」となるか、その違いはどこにあるのでしょう?宮崎駿という、ロリコンという特殊な世界から普遍をくみ上げる監督は参考になるのでしょうか・・・・・・。ああ、でもいい加減、ジブリもプロの声優を使うことを覚えたほうがよいですね。
本音を言えば、マイナーな原作を映画化するならマイナーな作りにしてほしいものです。頂点を取ることだけが戦略ではないでしょうに。
ところでこんなの見ました。

モスラ [DVD]

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インファント島の守り神モスラが、さらわれた小美人の姉妹を助けるために日本にやってきて大暴れ、というのが大まかなストーリィ。
悪人は悪人らしく、善人は善人らしく描かれていて、凄くわかりやすい話です。それでいて様々なメタファーが込められていて、見ていて飽きません。ああ、このロリシカ国ってアメリカのことだな、とか。小美人を連れて逃げるネルソン(悪役)と、モスラがやってくるのを恐れてネルソンを袋叩きにする民衆とか。登場人物が典型的なのとは対照的に、社会背景にはやけにリアリティがあります。
あとは小美人の歌う「モスラの歌」が印象的。「モスラ〜ヤ モスラ〜」っていうあれですよ。調べてみるとインドネシア語らしいです。
それにしても、貴重な生き物を見つけたら見世物小屋を作るのはお約束ですか?