ロンリー論理学

二日ぶりにネットへ繋がってみましたが、意外なほど世の中はゆっくりと動いているようですね。
うーん。珍しい感覚だ。
このように感じるのは視点がマクロになっているからでしょう。「遠洋漁業に行ってきたの?」それはマグロ。変化や発展は極々狭い領域にしか見つけられない、と『数学的経験』に書いてありました。
「数学的な経験って、どんな経験ですかー?」
「数学的な経験とは、数学のような経験のことだ」
というわけで今日はトートロジーの話をしましょう。禅僧になった気分で読んでください。
トートロジーとは、日常的な意味では=の前後に同じ言葉が入ること。「私は私だ」のような。これを応用すると土屋賢二風のギャグができます。「心柱を調べたら、心柱だとわかりましたぁ」。あ、これはもう使ったか……。飽きられない土屋先生は偉いな。
世の中こんなにわかりやすいトートロジーなら良いのですが。「人間とは何かは結局のところ不可知である。そのことをわかっていない人が多すぎる」。
そして、あんまり日常的ではない意味が「すべてをカバーする文」。これも例を挙げると「明日日本は沈没するかもしれない。しかし、もしかしたら沈没しない」。あ、これも土屋先生だ……。気を取り直していきましょう。このトートロジーを極めると宗教の開祖になれます。修行して高い壺を売りましょう。「これは、いいものだ!」
なんて書くと、まるでトートロジーが悪者みたいですね。「真理とはトートロジーのことである」という言葉もあります。誰が言ったのか知りませんが。
やはり禅僧の振る舞いは正しかったのかな?