大杉栄

クロポトキンの翻訳者である大杉。相互扶助は「互いを守るもの」であると同時に、「互いから互いを守るもの」でもある。これは「一切の社会には、必ずその両極に、征服者の階級と被征服者の階級とが控えている」という見解からの帰結。
「社会か監獄か」1913年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)

お互いに/君は僕に対して、僕は君に対して、/自分を保護するために/ここに社会という組織を作った。
(中略)
君は僕がやるに違いないと思い、/僕は君がやるに違いないと思う、あらゆる悪意と暴行とに対して、民法や刑法の幾千個条を定めた。


これが/君と僕との社会だ。/君と僕との監獄だ。(47−48p)

「征服の事実」1913年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)

社会は進歩した。従って征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた。
政治!法律!宗教!教育!道徳!軍隊!警察!裁判!議会!科学!哲学!文芸!その他一切の社会的諸制度!
(中略)
この征服の事実は、過去と現在および近き将来との数万あるいは数千年間の、人類社会の根本事実である。この征服の事が明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何物も、正当に理解する事は許されない。(56p)

「生の拡充」1913年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)

生の拡充は生そのものの根本的性質である。原始以来人類は既にその生の拡充のために、その周囲との闘争と、おそびその周囲の利用とを続けてきた。また人類同士の間にも、お互いの生の拡充のために、お互いの闘争と利用とを続けてきた。そしてこの人類同士の闘争と利用とが、人類をして、いまだ発達したる智識の光明に照らされざりし、その生の道をふみ迷わしめたのである。(62)

→「征服の事実」。征服者、被征服者の双方が「生の拡充・充実」をできなくなった。

ここにおいてか、生が生きていくためにはかの征服の事実に対する憎悪が生ぜねばならぬ。憎悪が更に反逆を生ぜねばならぬ。新生活の要求が起きねばならぬ。人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求が起らねばならぬ。果して少数者の間に殊に被征服者の少数者の間に、この感情と、この思想と、この意志とが起って来た。(65)

・個人と社会について。社会主義アナーキズムの切断線。
「生の創造」1914年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)

われわれは個人のない社会を想像し得ないと同時に、厳密なる意味において、社会のない個人をも想像し得ない。従って社会的周囲を背景としない個人論の甚だ無価値なる事を思う。しかるに社会主義はこの社会的周囲を過重するの結果、その社会論から個人的要素を除き去ってしまった。その理想的周囲に至るまでの各個人の態度について、真に個人としての態度について、ついにほとんど語る所がなかった。(p73)
経済的行程が道徳を創るという事を余りに大まかに主張した社会主義の哲学の前には、あらかじめ各個人の道徳的性質を説くが如きは、もとより無駄事であったのであろう。しかし社会主義が躓いたのは結局この石であった。(p74)

自由と創造とは、これを将来にのみわれわれが憧憬すべき理想ではない。われわれはまずこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。われわれ自身の中に獲なければらぬ。
自由と創造とをわれわれ自身の中に獲るとはすなわち自己の自己である事を知り、かつこの自己の中に、自己によって生きて行く事を知るの謂である。(p77)

「正義を求める心」1918年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)

不正義とは自己および他人の生活本能の蹂躙である。最近犯罪学の一学者はいう。犯罪とは個人性の侵害であると。(p136)

相互扶助=各個人がもつ、相互の個人性を承認する能力。「社会的本能」。「文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義」(「僕は精神が好きだ」1918年)
相互扶助と進化論について。無政府主義は「進化の理法」に反しているので「非科学的」だという浮田和民の批判に対し、大杉はクロポトキンなどによる「進化論の進化」の結果、無政府主義が進化の理法に反していない(=科学的)であることは明らかになったという。「無政府主義の手段は果して非科学的か」1911年(飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波文庫、1996年)
・米田正太郎との関係
注191(p313)

大杉は「革命的サンディカリスム」の研究で、米田の学位論文〔『輓近社会思想の研究』1920年〕はルイス・レヴィンの著作の「翻訳」同然だと批判しつつ、米田の本の抜粋を「労働組合の使命」として、転載したりもした。

米田庄太郎については以下。
米田庄太郎について(研究史・社会問題論) - tukinohaの絶対ブログ領域
・社会と「個人=自然」
檜垣立哉西田幾多郎の時代的役割――大正時代の生命主義に関するノート――」
大正時代における自然主義的な発想は、おおむね二つのベクトルを持っている。
(1)自我を自然へと開放するベクトル
(2)自然から自我を析出するベクトル
この二つは、同一人物のなかで共存する(たとえば初期の西田哲学―倉田百三のライン)。「私は自然によって生かされている」的な。どちらかといえば(1)の側面が強調される。これに対して(2)の側面が強調されると、無限・無規定的な自然を自我が受け止める際の衝撃が前景化してくる(後期西田)。
大杉においても、「自我とは要するに一種の力」であり、「僕の生」のなかに「人類の生」をみる(「生の拡充」)という形で、時代への異議申し立ての力を自身の生(「自我の内部に実在しつつ自我を突き抜ける自然そのもの」p15)のなかに求められる。

自然を無限者と規定したときに、それを自我そのものが人格者として引き受けなければならないその矛盾が、自然主義の原理として噴出してくることがポイントなのである。こうした姿を示す自然とは、むしろ現に成立している(すなわち差異が現実化して分化しきってしまった)場面〔たとえば大杉が監獄と呼んだ「社会」〕にとって、暴力的で狂気に近いものでしかありえない。

アナーキズム(「社会」主義ではなく)と「自然」「生命」の共振。
[参考:「僕は精神が好きだ」1918年]

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。(141)