幸徳秋水

・問題的なる「社会」と「社会的人権」―政治的権利から社会的権利へ
封建遺制ではなく、「現在の」社会に問題の根源を見出す社会学的視線。
・「教育界の迷信」1898年『幸徳秋水全集』第2巻(明治文献、1970年)

教育の社会近時益々繁劇を加へ来れり、教育問題の続出すること春草雨を経るが如く教育家の論説は蛙一斉閤々たるが如く爾り〔中略〕然れども現時我国教育の、最も急要とする所は、世の所謂教育問題に在らずして、実に教育社会に瀰満する一種の迷信を打破するに在る也(p25)

・「社会堕落の本源」同上

我国社会の腐敗堕落殆ど今日に至て極り、毫の耻あるなく些かの義あるなく、奸曲の徒と淫汚の俗と煕々穰々として天地に充つるは、政治家も宗教家も皆な之を熟知せり、教育家も新聞紙も皆な之を痛慨せり、之を知り之を慨して之が拯救の方を劃する、筆に下に手に力めずと言ふ可らず、而も尚ほ社会は依然として醜穢也(p27)

予は謂ふ我国一般腐敗の源は、萬年町新網町の貧民窟にも在らず、新柳二橋の狭斜にも在らず、所謂維新革命後百物破壊して徳義の標準未だ立たざるが為にもあらず、所謂物質的文明の進歩に過ぐるが為にもあらずして、実に今日の貴族に在り、貴族世襲の制度に在り。(p28)

世襲貴族は「徒手遊食の米喰虫」「社会的バチルス」(p30)
・「社会的人権の認識」同上
日本鉄道の争議(同盟罷工)について

荷主や旅客や其損害を愬ふべし其危険を論ずべし、会社怠慢の罪をも鳴らすべし、政府監督の責をも問ふべし、而も猶ほ別に経世の君子が更に深思を效すべき大々問題の存する有るを見ずや。
何ぞや近時我国の労働者が自ら其社会的人権の存在を認識し来るれること是れ也、是れ我文明史上の一大問題に非ずや、夫れ国民たび其政治的人権の神聖なるを認識して、専制抑圧の桎拮を脱出し、言論集会結社参政等の自由を恢復するや、次で来る者は即ち社会的経済的人権の恢復也、是れ欧州諸国の近世史殆ど其揆を一にする所にして、蓋し社会進歩の大道違ふ可らざる者あるに似たり(p30−31)

「所謂階級の無意義なる」「自己の労働の神聖なる」「平等の真理なる」「生活の権利ある」「モノポリーの不徳なる」こと。
政治的権利がすでに恢復された?←のちの直接行動主義との認識の落差

見よ欧米の人民は其政治的自由を恢復にするに於て、常に億万の生命財産を抛つの惨劇を免れざりしも我日本人の政治的自由は比較的平和の回復を得て、以て洋人に誇るを得たりしを、我社会的人権の回復の如き、今にして能く社会進歩の大勢を看取し、其方法を盡すに於ては、亦欧米今日の弊毒を免るるを得るのみならず、造父の担道を驅るが如けんのみ、要は唯当路の明断果決に在り。(p31-32)

・「社会腐敗の原因と其救治」同上

今日の社会は実に、生産力の発達し富の増加するにも拘らず、貧困窮乏随つて増加するてふ、極めて不正不道理の社会也、是れ一に現存の制度組織が、資本家に向つて莫大の保護を加へて、而も富の一部に集積するを制限することなきが故に、貧富の懸隔をして益す大ならしむれば也(p153)

故に今日の腐敗堕落を防止せんと欲せば先づ今日の社会組織を根本的に改造せざる可らず(p154)

・「非政治論」1899年(2巻)

政治を信ずること勿れ、政治は万能にあらず、社会の発達と国民の繁栄が、単に政治の力のみに依て成し得べしと思はば、是れ大なる誤り也。

・「憐れなる労働者」同上

警察官吏の事理に眜くて、警察権の誤用せられる丈けならば、猶しも療治は仕易いのであるが、我社会人民が一般に之〔労働運動〕に対して昏々眊々たるに至つては、換言すれば世人が労働を侮蔑して全く労働者を忘れて仕舞ふに至つては、大に悲しむべきのことと言はねばならぬ、故グラツドスドン翁が曾て言つた「我英国の為に恐るべきは、露仏に非ず、米独に非ず、実に労働組合と同盟罷工の二つである」と言つた、此語の精神を味はつたならば、是は労働組合の恐るべきではなくて、実に労働組合を必要とする社会の状態其物を恐れたのだ、同盟罷工を恐れるのではなくて、同盟罷工の避く可らざるに至つた社会の状態其物を恐れたのだ(p171)

個人主義批判
・「修身要領を読む」1900年(2巻)
福沢諭吉編纂(とされる)『修身要領』への批判。

一に重きを個人の独立自尊に置きて、社会に対する平等調和及び公義公徳を訓誨するに至つては、頗る冷淡に過ぐるを覚ふ(p306)

博愛や礼儀作法が説かれていても、それは「皆な独立自尊の為め」であり、「個人が社会全般の福利増進の為めに犠牲となるの、本分、責務、徳義たるを説くことなし」(p307)
社会のために個人を「没了」せよとは言わないが、「文明の社会に処しては、決して個人を先きにして社会を後にすること能はず」(p308)、「独立自尊は一変して利己主義となり、利己主義は多くの場合に於て社会に対する背徳となり了らずんばあらず」(p309)
・「個人主義の弊」1903年幸徳秋水全集』第4巻(明治文献、1968年)。
・進化論について
・「進化説と社会主義」1902年(4巻)

加藤弘之氏を始め、今の大学教授等は、皆な此のダーウイ―ンの生物進化論を誤解妄読しまして、生物の進化は自然淘汰の結果であるから、生存競争はこの世の原理本則である。現時の自由競争の如きは全く此の理に協つて居るもので、社会主義などは実に此の進化論より見れば迂路邪説たるに過ぎないと云つて居る。(p376)

⇒出発地点の平等を保障し「真の自由競争」(p379)が行われる新社会を作るのが社会主義の主張である。

生存競争はヤハリイツマデもありまして、文物の進歩は愈々進歩するのである。唯生存競争なるものの意味が、今日の生存競争の意味とは異なつて来まして、其の競争する所以の手段、方法、目的等が次第に変化して行く。〔中略〕社会主義の実行された社会には、唯々正義の争ひ、理想の競争が行はれることとなるのである。(p380-381)

加藤弘之も共同体内では「利他の競争」が行われると言っており、進化論へのスタンスは共通点が多い。ただし「共同体内/外」の区別を幸徳は重視しないという違いはある。
・「社会と犠牲」1903年(4巻)

生存競争優勝劣敗てふことが、生物殊に人間社会の進化発達の唯一原因であると思はば、夫は所謂楯の半面を見た誤りである、彼等の生活し進化する所以の職分には、常に二様の方面が有る、彼等は競争すると同時に協同せねばならぬ、自己の生存を図ると同時に種族の繁栄を助けねばならぬ(p400)

独り同種族の協同と犠牲のみではなく、異種族間にも、一種の犠牲の交換がある、彼の禽鳥蝶の類が花の香や蜜を吸取ると同時に、其の植物の交媾を媒介するが如きは、其一例である、故に生物及社会の進化は生存競争に由ると言はんよりも、寧ろ犠牲の交換に由ると言ても過当でないので有る、そして予は此犠牲の交換が多大なる丈け夫れ丈け其動物が高等の地位に進むことを認めるのである。(p401)

しかしながら犠牲を要求するばかりでは社会は堕落する。「犠牲を供給するの精神地」が必要。
社会主義が登場する必然性。

社会主義は社会の為めに個人の犠牲を要求する者である、之と同時に社会は個人をして、必ず生存せしめるのである、必ず個人を養育するのである、現時の如く、少数個人の生存栄養の為め、多数の個人を犠牲とするの制度を廃して、社会全体が堅き協同、深き愛、大なる犠牲を交換して、以て進化に資せんとする者である(p403)

初期社会主義の例にもれず、社会進化の階梯に社会主義を位置づける。その意味で社会主義の到来は進化の必然であるが、いつ到来するかは社会主義者の犠牲的精神にかかっている。

然れども果実の為めに美花の散乱するが如く、社会主義の実現の為めには、先づ幾多志士仁人の犠牲の供給を要する、亦無論のことである、此点に於て今の社会主義は元より不惜身命の覚悟が無ければならぬ(p403-404)