社会概念史(大正・昭和)

経済
参考:加瀬和俊『失業と救済の近代史』(吉川弘文館、2011年)。
明治後期に労働問題が顕在化した理由について。
(1)明治前期において雇用労働者の大多数は若年層であり、年齢が進行するにつれて自営業化するというライフコースが一般的であった。しかし重工業の発達とともに熟練工の需要が高まり、勤続年数は長期化。扶養家族を持つ労働者が増え、賃金水準も高くなった。このことはいったん失業された際に受ける打撃を大きくした。
(2)明治前期においては労働者も失業者もみな貧乏であり、失業者とその他多数の貧困者との区別は曖昧であった。労働者の生活水準が一応安定することによって、はじめてその区別が重要になった。
(3)勤続年数の長期化は都市化を進行させ、文化的にも経済的にも根無し草の労働者を生み出した。彼らは失業しても田舎に帰ることができず、都市スラムが形成される。
(4)学歴所有者が順調に増加したにも関わらず、それを受け入れるホワイトカラー職種の採用数は不安定であり、大量の高等遊民が生み出された。


・貧困と失業と社会的なもの
・竹越与三郎『人民読本』(慶応義塾福澤研究センター、1988年)。
明治34年版と大正2年版の2種類が存在。両者の異同から社会状況の変化がうかがえる。
明治版ではその存在を指摘されるにとどまっていたトラストの存在、自由貿易論と保護貿易論の対立などが、大正版では「個人主義」と「衆団主義collectivism」の対立として詳細に論じられている。ただし「英国の事例紹介」という形をとっており、「我が国に於ては、トラストは巳にあれども、其の勢い猶ほ未だ猛烈ならず。個人主義は信奉せらるれども、衆団主義もまた信奉せられ、工業を重んずるものも、農業をも重んじ、多くの主義は、死生の争を為すほどに、相切迫せざるのみならず、同時に相行はるるもの少なからず。〔中略〕国民の生活に、猶ほ原始的の余裕あると、国民の耳目の甚だ開けざるとによるものにして、今後七八年に至らば、旗幟鮮明となり、離合戴然たること、疑ふべきにあらず。」(p209-210)

然るに此の主義(個人主義)の弊害としては、強き大なる個人は発達するも、弱き小なる個人は其の犠牲となるを免れず。果ては強大なる個人が、国政をも壇にして、国民の自由進歩を阻ぐるに至るが故に、政府の権力によりて、過大なるものを抑へ、過少なるものを救ふことを目的として、政府を行ふべしと云ふ一派を生ず。是れ英語にて云ふコレクチビズムなるものにして、譯して衆団主義と云ふべく、其の目的に於ては、個人主義と異ならざれども、個人主義は個人を出発点として進み、衆団主義は衆団即ち国家、若くは市邑を出発点として進み、最初より衆団の力に依頼せんとするものにして、其の結論として、自由競争を排し、私権を軽んじて、多くの事に国家の干渉を是認す。(p206-207)

英国においては「社会的立法」が要求されている。

社会的立法とは、国家が社会主義の中の穏なる幾分を採用して、実際に施さんとするものにして(p208)

工場法、累進課税、反トラスト法etc


・社会事業と社会的なもの、社会調査
山口正「社会事業といふ言葉とその起源」『社会事業研究』21巻11号、1933年。

価値をはなれて例へばマツクス・ウエーバァのいふ意味に解すれば社会的行為とは意識的に他人の行動に向けられたる自己の行動である。価値を考慮に入れて考へるならば、社会的といふ語は倫理の一範疇を内包してゐる・この社会的といふ語はSozius―仲間の意―といふ語から来たものであつて、今日では弱者の連帯的結合の意味或は社会の生存競争裡に於ける被抑圧者に対する保護の意味を有する。(p71)

社会事業という言葉の初出について。大正8年内務省救護局が社会課に改称、翌九年には社会局となり、内務省官制中に「賑恤救済其他社会事業に関する事項」が盛り込まれたのが官公署名に現れた最初の例。仏教社会事業大会は大正3年に「社会事業」を用い、宗教大学は大正6年に社会事業研究所を創設。井上友一『救済制度要義』(明治42年)が書籍で用いられた最初の例か(p73)
永井良和「山口正と大阪市社会部――昭和初期の社会学と社会調査――」戦時下日本社会研究会編『戦時下の日本』行路社、1992年。
「緊張に満ちた利益社会」という認識←だからこそ山口は社会事業を必要と考えた(吉田久一『昭和社会事業史』)
山口正は社会調査の重要性を米田庄太郎から学んだ。しかし、法則発見を目的とする社会学と、実践のための社会事業とでは目指すところが違う。
→調査のための面談も「自助の念」を喚起する機会と捉える。この意味でも調査と実践は不可分。
社会調査の必要性を訴えた先駆者として、米田だけでなく戸田海一も重要(『労働調査報告』第一輯の講演を参照)。


「能率」改善
・米田庄太郎『現代智識階級運動と成金とデモクラシー』(弘文堂書房、1919年)
ILO憲章に触れて。

尚ほ余は我国の資本家、企業家に向つて特に注意したき事がある。夫れは今日の我国一般の労働者の如き、組織のない、責任の念の薄い、不熟練な或は半熟練な労働者を無暗に酷使して利益を収めることの出来る時代は今や過ぎ去りつつあると云とこと〔ママ〕である。仮令我国の労働者がかかる待遇に甘んじて居つて、敢て不平を起さないにしても、世界の大勢は我国の資本家が、かかる労働者を使役して世界的市場に活動することを揺らなくなるのである。(p301)

米田庄太郎について(組合運動・政治運動) - tukinohaの絶対ブログ領域
・金子良事『日本の賃金を歴史から考える』旬報社、2013年
工場労働者について「〔日露戦後には〕ある程度の賃金を獲得していた実態とは別に、工場労働者と貧困層が近しい存在であるというイメージは日露戦後もある程度、継承された」(p42)
→社会改良の対象としての職工。
山口正「社会事業としての貯蓄事業とその文化的基礎」(1927年)では、工場法以後、職工を対象とした工場貯金が出現したとある。
社会改良と能率思想の結びつきについて。

一九世紀末には科学による能率と経済性がさまざまな分野で追及された。たとえば、テイラーは『科学的管理法の原理』(一九一一年)の冒頭でセオドア・ルーズベルトが大統領所信表明において「国民的な能率」を重視した点に触れ、それをより具体的なかたちで展開しなければならないと批判している。一八八〇年代から行政(学)の世界でも社会改良と結びつくかたちで能率が重視されルーズベルトはそれを国家的な問題としてとらえ返したのである。このような流れを踏まえると、第一次世界大戦を機に製造業にとどまらず、海軍や陸軍、行政関係にもテイラーの科学的管理法を受け入れる土壌があったのである(教育分野には一九三〇年代に浸透していく)。(p59)

能率と生活は対立してとらえられることが少なくない。〔中略〕しかし、ここで見逃してはならないのは、近代において「生活」は「能率」と深く結びついていたという事実である。そのことを知るためには私たちは社会改良主義を知らなければならない。
結論からいえば、社会改良主義は「国民的効率」(National efficiency)と結びついていた。(p74)

ex.)ウェブ夫妻の社会改良主義
短期的な利益のために、労働者の再生産費用を払わない経営者→中長期的な不利益
そのため労働条件を改善することは、競争力の向上にもつながり、世界全体の効率に寄与する。

社会改良主義には、社会に不適合な者、ないし社会にまだ適合していない者を矯正し、より社会の構成員として望ましい状態に適応させることを進歩ととらえる視点があった。アメリカでいえば、移民にたいするアメリカナイゼーションはその端的な例であろう。〔中略〕日常的な生活を送ることが困難な貧困者に矯正を施し、日常生活に復帰させるというのも社会改良主義の大きな特徴である。大雑把にいえば、生活指導である。
日本における農村の地方改良運動や都市の感化救済事業もこのような社会改良主義の影響を受けている。(p75-76)

テイラー『科学的管理法の原理』から「国民的能率」の思想を受け取った事例として、以下。
・西邨卜堂『精神能率増進法』人品雑誌社、1915年。
余は近頃、テーラー氏の労働能率法を読み、我国に於ける現状は、労働能率の問題よりも、国民全体の精神能率の問題が急務であることを知つた」(序p4)

更に一歩を進めて国民的能率向上を期せんとするなれば、佳良なる子孫を繁殖せしむることに着眼し以て不良なる種子即ち不具、発疾、 癲狂、白痴、悪疾等を絶滅せしめねばならぬ。其の方法としては先づ第一に其の種子即ち遺伝によつて、子孫の体質を善良ならしむる原因に着眼せねばならない。(p14-15)

以下はテーラーと独立に考えられた「国民的能率」論。
・藤原俊雄『日本社会改造論』(極東書院、1920年)。
藤原は実業家。1917年の都市研究会設立に参加(会長は当時の内務大臣:後藤新平)。本書の「序」も後藤新平阪谷芳郎による。
能率向上と社会政策一般との関係について。

全体此能率といふことは、労金問題、衣食住問題、生活向上問題、大きく見ては、一国の産業問題、経済基礎の問題等凡ゆる問題と自から密接なる関係があつて、一方から見れば此等諸問題が解決すればこれに従つて能率は増進すると見ることも出来るが、又一方から見れば能率が増進すれば此等の諸問題も自然解決に近づいて来るとも言へる。〔中略〕我国の今日経済的非常時に際会して居る現状からするならば、此等は何れも甲乙無く、共に俱に、改造してかからなければならぬ。(p118)

東京府下における人力車夫、労働者、細民など体力を維持するだけの収入が得られない人々が多くいる。「斯の如きは世界の人々から嘲笑を買ふ事である。故に国家社会はよろしく食料品代価の制限を行ふて、一般に生活の安定を得せしめ、体力を養はしめて、此処に基礎を立てて然る後能率の増進を図るべきである。」(p122)
労働者の人格尊重について。

圧政的に一も二も手を取つてやらせなければ承知せず、又これを受けなければ働かぬ現状では「能率の増進どころか」である。着々として心理上より研究して、着々として彼等自ら働かねばならぬやうに仕向けて、二三人の労働者に対して一人の監督者を附するやうな域を先づ脱しなくてはならぬ。(p120)

田中義一「青年訓練と国民の能率増進」青年雄弁会編『現代名士獅子吼大演説集』(青年雄弁会、1929年)。「茲に昭和の御代の新春第一年を迎へた吾々国民」とあるので、1927年か(首相就任の前後)。青年訓練所の関係者への演説。軍事教練の重要性を説く。

此の国民の能率問題については、最も重きを青年の気風、知能、及び体力に置きて考ふべきは勿論である。従つて、吾々は直に青年訓練の如何と云ふことに想到するのである。而して最近開始せられた軍事訓練については、吾人は当初より其の意義の重大なるを認め、其の効果如何に深甚の注意を払ひつつあるのである。(p479)

世界大戦の体験に依り、現在欧米諸国に於て、学生の軍事教練を盛にし、一般青年に対しても此の種訓練の普及徹底を図りつつあるは、隠れなき事実である。
吾人は日露戦役後、在郷軍人会の発達に努力し、其の活動を促進し、また青年会の創設を発議し、其の発展に参与したのであるが、今や我国の国民教育の現状、民心の傾向及び能率増進の緊要なるに鑑み、更に進んで、青年に対する訓練の徹底を期することが、甚だ肝要であることを痛感するものである。(p480)

軍事訓練は其の中心を徳育に置き、之に依りて、健全なる義務心、廉恥心を涵養し、協同協力を重んじ、秩序節制を尊ぶの精神を堅くし、社会的常識を高め同時に頑健なる体躯の錬成に資し、以て所謂能率の高き国民たる資格を与へることが、真の目的でなければならぬ其の副産物として、在営機関の短縮が可能となり、優良なる軍隊の出現となり得るのであつて、国防の基本もまた之に依つて、完成されると云ふべきである。(p482)

(参考:1920年代の政界と能率増進)若月剛史『戦前日本の政党内閣と官僚制』(東京大学出版会、2014年)。
高橋是清内閣で設置された行政整理準備委員会は、行政機関の統合、人員節減など大幅な改革を志向。しかし行政事務が増加するなかで人員を削減すれば、行政の停滞を招くおそれがあった。そこで持ち出された論理が「能率増進」であった。(p61)
ex.)政友会が第46議会(加藤友三郎内閣期)に提出した建議案→従来の行政整理は単なる削減だが、自分たちの案は能率増進を志向するものであり、行政の停滞を招かず、かつ余剰予算で積極事業を行うことができる。

こうした主張の実現可能性はしばらく措き、政友会が「能率増進」の論理を発見したことの意味は大きい。この論理によって、政友会は厳しい財政状況の下でも、増税なしの積極政策の推進にそれなりの説得力を持たせることが可能になったからである。特に憲政会の緊縮財政に対して、「能率増進」による行政整理を対置できるようになったことは重要である。〔中略〕ただし、政友会が批判するように、憲政会が「能率増進」を全く視野に入れていなかったわけではない。〔中略〕緊縮財政を標榜する憲政会にとっても、「能率増進」による行政整理はプラスになり得たからである。(p62)

この能率改善運動が単に労働現場の問題としてだけでなく、生活全体の問題としてとらえられた点について。↓
・(府立西野田職工学校長)飯田吉三郎「社会事業と能率増進(続)」『社会事業研究』13巻1号、1925年。
「能率増進と云ふ言葉は、近頃の流行語であつて、皆さんは百も承知、二百も合点と云ふ訳で、或はお叱りを蒙るかも知れぬだらうと思ふ」(p49)が、社会事業の「積極的方面」として能率増進が重要(p56)。
「能率増進」を無駄の切り詰めとして考えると、まず職工の給金を安くするべきである。そのためには職工の生活から無駄を切り詰めればよい。

此頃家庭の能率増進と云ふことを唱へますが、彼の所謂台所の構造、建築などはもう成つて居らぬ、大阪などは殊に甚だしい、もう人類の馬鹿さ加減に驚かざるを得ない(p52)

労働者としての自覚について。

そこで私共は少なくとも失職者であるとか、或は労働者であるとか云ふものに対しては、積極的精神的の訓練及び教育を授くることが必要であると思ふ、少なくとも「労働は神聖なり」と云ふことを徹底的に自覚せしむる方法は、この社会事業の積極的方面ではなからうか〔中略〕能率が上がらぬと云ふことは一面から云ふとその人の心の置き所が悪いからである、即ち自分がかうして労働をして居る、職工をして居ると云ふ事は、いやいやながら仕様事なしにやつて居るのだと、何かモツトうまい仕事はないか、好い職業があるまでマア止むを得ずやつて居るのだと云ふ風に、いつも逃げ腰であつて居る(p57)

・上野陽一「能率増加法の話」『心理研究』4巻5号(1913年、425頁)。
作業方法を改善すると「エネルギーの経済は非常なものである」
・上野陽一『人及事業 能率之心理』同文館、1919年。
実験心理学と能率改善
正常と異常の境界線はあいまいであるが、標準は「環境への適応」である

某々の境遇に対して甚だしく度外れでない正常なる反応をするやうに個人を訓練するのが即ち教育である。〔中略〕要するに、個人の行ふ行動なるものは、如何に複雑なものであつても、之を分析して見ると、境地又は訴求と、それに対する反応との二面になるといふことが出来る。(p18-19)

行動を要素に分解し、何がその行動にとって重要であるかを確認することについて

何か複雑なる現象を測定するには、その活動能力を異にする多数の人に向つて、従来実験室で用ひてゐる多数の検査を施して見る。その検査法の中で、その活動能力に長けた人にはよく出来て、長けてゐない人にはよく出来ないといふやうな検査法があると、それを以てその能力検定の良法と見なすのである。この方法は今日でもやはり価値をもってゐる。複雑なる活動を要素に分析することが出来ない場合には、かついつたやり方が用ひられる。但しこのやり方は初めから見当をつけて検査の方法を選定するのでなくして、色々手さぐりにやつて見てゐる中に、その能力を示すに足るやうな検査方法が発見されて来るのである。その方法で検査する事柄は必ずしもその活動の中枢になつてゐるものとは限らない。(p25)

正しい結果を出さうと思つたならば、その仕事を要素に分解するばかりでなく、出来得べくんば行動全体を要素に分析しなければならぬ。それが十分に出来てゐないといふと甚だしい誤りを起こさないとも限らない。(p33)

・個人本位

然るに、新式の管理法においては、個人差の心理学が極めて大切である。歴史上教育学が個人本位となり、刑罰も個人本位になつて来ると同時に、管理の方法も個人本位になつて来た。〔中略〕更に近来に至つては「工業デモクラシー」といふやうな言葉が行はれて来た。(p322)

かくの如く、職人は自分がやつてゐる仕事の土台をなしてゐる科学を了解することが出来ないからして、適当なる専門家に依嘱して、その仕事を分析し、更にそれを総合して科学的に整つたものにすることが必要である。(p326)

優生学と能率

故に能率の高い人を生んで発達させるといふ立場から見ると、家族の遺伝といふことは極めて重大なる問題である。理想をいへば能率の高い生活をなし得る個人だけが生まれて欲しいのである。この目的を達するには、結婚の方法を改良するといふことが極めて大切である。(p84)

上野の進化論に対する考えは、『児童心理』(婦人界社、1923年)第3章「子供の身体の発達について」を読む限り、ラマルキズムに近いと思われる。獲得形質を(やや形勢不利な学説だと知りつつ)肯定したがっていること、個体の成長過程と種の進化過程が一致すると考えていること、など。
・若林米吉「科学的管理法批判」『社会政策時報』第20号(1922年)。
ロシア革命批判と科学的管理法

露国の労働者は、近世産業の中枢たる技術家や財政家の援助を得ずして、自ら事業経営の陣頭に立つた為めに、遂に生産組織の瓦解を招き、レニン自身でさへも、其革命に管理者階級の指導を得なかつたことを、失敗として辞任して居る。此失敗を補ふ為めに過激派の実施した産業徴集の方策は、一種の管理法と云はねばならぬ。(p128)

・科学的管理法と社会政策の関係

茲に注意を要するのは、テーラーが社会政策上重大なる問題を全く不問に附したことである。科学的管理法の要求に適しない者の失業問題がこれである。資本家は実際自己の使用する労働者のみにちゅういすればよいと云ふ仮定の下に、此重大な失業問題の解決をいつまでも政府に一任して置くべきではない。此仮定が除かれない限りは、労働者が資本家の喰物としてのみ存立するかの如く思ふのは、決して無理のないことである。(p234)

野田信夫「科学的管理法と労働者の福利」『社会政策時報』第41号(1924年)。
・科学的管理法と労働組合
科学的管理法は「優秀な労働者に高い賃金を払う」としか述べていないのであって、それだけで賃金のすべてが決まるわけではない→労働組合の仕事(とくに団体交渉)と科学的管理法の双方が重要。


社会科学
・社会科学における「理論」と「実践」
明治期における社会科学においては、理論と実践の境界は曖昧(ex.国家学と政治学社会学社会主義)。しかし理論化ないし体系化志向の強まりとともに、実践との距離が遠くなってくる。マルクス主義の内部に於いても「新しい社会理論としてのマルクス主義」と「運動の指針としてのマルクス主義」を改めて架橋する必要が認識される(福本和夫の河上肇批判)。
⇒自由意志と必然論、哲学と科学の問い直し(新カント派)、科学的価値論(エネルゲティーク)、社会変革や革命の主体論(人格主義、生命主義)。
河上肇による「フォイエルバッハ・テーゼ」の翻訳について(1927-28)
河上はテーゼから(1)理論は実践から生じ、(2)理論の真理性は実践的価値によって規定され、(3)正しい理論だけが世界に影響を与え(=実践を可能にする)、変化した社会はさらに進歩した理論を要求することを読み取った(理論と実践の弁証法)。これは知識人の理論的実践の意義付けであるのと同時に、マルクス主義は「実践」から生じているがゆえに唯一の正しい社会理論である、という主張を含む。

一方では〔理論を〕解釈・吸収することに専念し、一方では外国の動向に「便乗」した形で活動・運動をしているなかで、その両者ともに真の意味での思想が社会理論化しえなかった時代、そのなかで河上の作業は、まさしく現実のあり方と理論の場所との関係性、その距たりをなくすことに傾むけられていた、ということができるだろう。
――滝本往人「「実践」概念の再検証―「フォイエルバッハ・テーゼ」における「プラクシス」をめぐって」『プラチック理論への招待』118頁――

客観性と実践性の不可分な結合。同時代におけるマッハ主義の流れとも共通?(マルクス主義において実践性は単数的だが、マッハ主義においては複数的であるとみなされる)


・科学的思考のひろまり―神職の場合
1923年の全国神職会機関紙に掲載された「二人の青年神職の対話」は、25,6歳くらいの青年男子「洋服」と、32,3の男である「紋付」の対話という形をとる。

(前略)
〔洋服〕「交際丈けは神職も近頃一人前になつて来たからね。……比較宗教学の一般や、哲学、心理学等の概念位、頭にないと今日の人達とは話が出来ないよ……」
(中略)
〔紋付〕「僕も君の説に同感だ、どうしたつて新時代の神職は新しい学問をせなけれや鱈目(ママ)さ、仮令、我々が国体講演をするにしてもだ、頭から「抑々神代の初に於て」などとやり出したんでは、聴衆はフフン又かと鼻の先で笑ふが、之を、世界興亡の跡を説き、露国の現状を説きなどして聴衆の興味を充分に引き出して置いてから、さて我が国体の優秀無比なる所以を説いたなら、聴衆は、きつと感激裡に講演の要旨を会得するに違ひない。……」
(畔上直樹『「村の鎮守」と戦前日本』(有志社、2009年、148−149p)からの孫引き)。

当時の神職界では、官社に対する諸社の結束が進められるのと同時に、地域に密着した諸社こそが国民教化に大きな役割を果たすべきだとする考えが、諸社の若い神職から主張されていた。官幣大社などに対抗し諸社の階層的立場を確保するためには、諸社の神職は自らこそが国民教化に適していることを証明しなければならない、というわけだ。


社会的なもの
敵対性の承認―社会連帯主義を介した

協調会宣言においては、温情主義は「優者が劣者を懐柔する」ものとして明確に否定され、「社会に闘争の跡を絶たしむることを空想するものではない」と、階級間の紛争をその実在の水準では肯定していた。闘争なき社会はありえない。しかし、闘争なくして労働者の地位向上はありえぬのであり、協調の余地はないとする観念、すなわち階級闘争主義は退けられねばならない。<社会的なもの>の一つの指標がここにある。
(酒井隆史「第5章基調報告」『社会的なもののために』p222

たとえば社会政策学会の金井延と福田徳三の差異、デュルケムを引きながら犯罪を「正常な社会進化の証」とする牧野英一を想起。

われわれの実証主義とは、文化を文化それ自体としていはゆる論理的に考へるのでなく、文化の内容を進化過程の間に看取して、そこに、文化の理想を更に高次一段ならしむとするものである。
その結果として、われわれは、今、社会連帯といふ思想に到来したのであつた。……これを、民法の範囲において、われわれは自由法論と名づける。自由法論といふのは思惟の基本を伝統的な或ものから解放されしめようとするからである。これを刑法の範囲において、われわれは、社会防衛論と名づける。
(牧野英一「法律における文化及び価値(一)」『法学志林』33(3)、1931年)

実践における主権的論理からの離脱
これも酒井隆史による。「社会的事実」と「主権的なもの(ex.法、権利、国家主義)」の距離が自覚。

酒井 さきほどの川越さんの指摘によれば、ヨーロッパでいうと一八八〇年代、日本でいうと一九二〇年代、三〇年代の状況というのは、穴漏れがあちこちでおきていて、そしてそれを最もうまく捕獲したのが、ヨーロッパでは社会主義運動で、日本だとやくざだったのかもしれません。いずれにせよ、反国家、反政府的な運動が最もその動向をつかんでいて、捕獲していくわけです。そして、国家がそのあとからやってくる。……最初から国家がいろんなものに目配りして先手をうっていろいろやったということではなくて、むしろ国家から脱出するような動きを国家があとから巧みに取り込んでいく、いつも後付で取り込んでいくというように考えたほうがいいのではないか、そう思います。
(『社会的なもののために』279p)


「群衆」という問題
・左古輝人「社会概念の再検討」『人文学報』43号(2008年)
19世紀から20世紀初頭の社会学における「群衆」と「公衆」の対比について。

そこで言われた<公衆>とは18世紀に再解釈され<市民社会>となった<公共>であり、<群衆>とは18世紀に再解釈された<社会的なもの>の別名である。この議論の主導者の一人だったガブリエル・タルドが<社会>を、自足的な閉じたサークルとしてではなく、膨大で一貫性のない思考・行動諸様式の断片群、すなわち<社会的なもの>の群全的な同居のありさまとして捉えていたことも、記憶にとどめられるべき事実である。p150


「社会の発見」
・建部遯吾の「社会の発見」

「社会の発見」に至れりといふその「社会」は、されど猶未だ「小乗」たるを免れざりき。勿論初めに「小乗」あり、而して後に「大乗」に到達するは、これ事の自然なり。
「小乗の社会」は、sociusを語根とすることによりて成さるべき名目によりて表現せらるる「社会」なり、其の形容詞となるやsocialとなる、其の本質は、「人間生活」に於ける社会的――社交的といふと相距ること遠からざる――性質を抽象して命名せる所のもの、客観的実在としての存立を「社会」に認むるには、尚頗る大なる距離を存するものなり。「大乗の社会」は、societasを語根とすることによりて成さるへき名目によりて表現せらるヽ「社会」なり。茲に其本質的、客観的独立渾一的実在を得、乃ち「個人」、「国家」と相対して、同級の範疇の中に於ける対立概念たるの地歩を完全に獲得成就するに至れるもの。其形容詞となるやsocietalとなる。(195頁)
建部遯吾「福田徳三氏「社会政策と階級闘争」」『日本社会学院年報』10巻1・2号、1922年。


永井亨の「社会の発見」
・永井亨『社会読本』日本評論社、1926年
「第一課 社会の発見」(p26〜)
Q.社会は何によって発見されたのか? A.実証主義
Q.社会の発見とは? A.階級の発見、経済社会の発見

もとより外界の物質こそが、精神界を支配するものだと考へた。物質的世界の命ずるままに、自然の法則や進化の理法に基づいて、人間社会を改造しようと企てた。(p14)

今まで考へられたやうな、人の自然のままの力や、精神の力といふことの外に、物の力や生産の力が、人間社会を動すものだといふことも、よくわかつてきた。斯くてこそ、いはゆる社会の発見が、やつと行はらえるやうになつたのである。(p15)

・永井亨「新社会政策体系について」『社会政策時報』60号(1925年)。
社会政策と一元論哲学

先づ第一には、社会政策は或る一定の人性観乃至社会観に発して、自ら一定したる観念的基礎乃至倫理的観念を有するといふことである。
何よりも先づ社会政策は人の本性を自他二極、善悪二端の帰一一体と見る人性観の上に立つて、同じ一の人性に自愛心と他愛心、利己性と同情性、争闘性と協同性がその二極二端となつて同時に具はつていると観察する。そこに二極二端の存するところ謂はば人性不動の原則が行はれ、二極二端の働くところ謂はば人性可変の原則が行はるると考察する。(p5)

社会政策は、上述の如き自他二極一体と見る人性観乃至人生観と同じ見地の下に、物心二元を一体と見る社会観乃至史観の上に立つて、そこに一定の哲学的基調を有する。(p7)

近頃高田博士(『階級及第三史観』)の主唱する第三史観なるものが、社会を人的結合又は心理的結合と見てその社会的勢力に史的動力を求めんとしてゐる以上、果たして社会を物心二元を一体と見る社会そのものの力――物心二方面に働く社会一体としての力――に史的動力を求めたものなるや否や稍々明瞭を欠くけれども、兎も角も斯かる史観が精神史観や経済史観の基づく観念的精神や物質的生産力の外に史的動力を求めんとしたものであることはたしかに注目に値する。若しこれが真に社会学的史観と称し得るものなら、同時に又社会政策的史観と謂はざるを得ない。
斯くて社会政策は物質と精神、自然と心意の結合統一といふことに哲学的基調を置き、現実と理想、科学と哲学の結合調和といふことに立脚するものである。(p8)

個人の生存権や人格権の確保は、他の何れの主義も同じやうに論じて、社会そのものの社会のための政策であるべき社会政策の哲学的基調とするに足らない。(p9)

国家と社会

国家はそれ自体に独立絶対の目的を有するものでなく、社会の調節機関として個人の社会的生活を整調すべきものであり、又た実際に於ても斯く変遷しつつゐる。(p12)

(参考)永井亨「社会政策の根本思想」『社会政策時報』10号(1921年)
社会政策の思想的価値

そこで往々にして学者中にも、社会政策には哲理なるものがない、哲理の存せざる政策主義は価値が乏しいと批評したり、或は将来子孫の時代になつたら必ずや現代の我々の無思想を嘲笑するに至るであらうと悲観したりするものがないでもない。(p2)

僅かな例外として協調会の宣言書を永井は挙げている。
社会権と社会への義務

個人主義思想と共同主義思想の調和統一が社会協調の根本義である事は上来説明した如くである。然らば個人主義思想を代表すべき基礎観念は何であるか、個人主義は如何なる観念として発達すべきものであるか、人格(Personality)の観念即ち之れである。共同主義思想を代表すべき基礎観念は何であるか、共同主義は如何なる観念として発達すべきものであるか、正義又は公平(Jusice)の観念即ち之れである。人格なる観念は個人的自主的であり、正義なる観念は社会的他主的である。人格の観念は近世権利思想となつて発達し、正義の観念は責任又は義務の思想と為つて古来最も早く発達した。近世権利思想が著しく発達するに従つて却つて責任義務の観念が閑却せられ、最近に於て正義思想の復興を見んとしつつある。(p7)

最近学者或は生存権、労働権、団結権、休養権の如き人的自由の権利を主張し、或は教育権、慰安権、住宅権、健康権、小児保護権、婦人対等権とも称すべき各般の権利を肯定するものあるに至つたが、未だ法律上積極的の権利として充分に之を認むるの域に達しないのである。是等の権利は天賦人権の思想に胚胎したものとも謂ひ得らるるが、寧ろ各個人の社会に対する権利、即ち社会権として発達を見るべきものであつて、社会に対する各人の責任義務と相俟て発達しなければならないものである。大体に於て将来は個人の利益財産等を目的とする財産権の如きは適度に之に制限を加へ、個人の生命身体自由等を基礎とする生存権又は人格権とも称すべき基本的権利に就て一層之を尊重するの原則を確立する必要を認むるのである。(p8-9)


長野県神川村における「社会の発見」鹿野政直大正デモクラシーの底流』(日本放送出版協会、1973年)からの引用
論旨は、普通選挙の実施がもつ意味について、神川村の北川太郎吉がどう認識したかについて。

「少数の所謂権力階級が本当の幸福を選択してやる」ところの「十七世期〔ママ〕の終から十八世期の初めに実行された、所謂開明専制」は、「吾々の人格を無視した暴論と云ふべきだ」、「十九世期に於て最も大きい発見は社会の発見である」、「此れ以前に於ては人々は国家の存在しかしらなかつた」。こうのべてかれは、いわば国家の秩序から社会の秩序への転換を予想しているのである。普通選挙は、いわばもはや目標ではなく、そうした転換をうながすための手段ないし階梯であった。それを北川は、「此れによつて資本主義を倒さんとする要求」とのべる(以上「現在の諸問題と吾々の態度」、『神川』八号、一九二六年一月一日)。それは、既成の形容によってしか自己を表現できないという弱味をもちながら、あきらかに、既成の価値や秩序への不信と総体的な転換への熱望を表白しているのであった。
(131頁)

北川太郎吉については⇒http://www.mori-farm.com/rekishi.htm
掲載誌の前身となる『神川(かんがわ)青年会報』は、1923年に長野県の上田・小県地域にある神川村の青年会事業の一環として創刊された(1920年代には同地域の他村で多数の青年会報が創刊されている)。1923年に『神川』へ改称。
「人格」という言葉に託されたもの:我々の「幸福」は権力階級によって代弁され得ないし、権力階級の「幸福」に我々の「幸福」は包摂されない(非共約性)。


・「社会の発見」と人格主義
帆足理一郎『社会と新人』(洛陽堂、1921年)。

人は社会を離れて棲息することは出来ない。個々人は社会的産物であつて、何等の社会的援助なくして此世に生れ出でたものは一人もあり得ない。吾等は恰も魚の水に於けるが如く、其生れ出でたる社会に宿命的に囚はれてゐると見ることも出来る。〔中略〕されば、吾等は魚と同じく、只其棲息する社会内に於てのみ自由の遊泳を試み得るだけである乎。否な、茲に魚と人の相違がある。魚は其遊泳する水を赤くも黒くも清くも美しくもすることは出来ない。けれど、人間は如何に其生れ付いた民族的国家的特徴を生理的に脱し得ないとは云へ、社会を改造して己が理想と一致せしむることが出来る。p1−2

因果関係をたどっていけば、無限に責任をさかのぼることができる。しかし私は現在と未来の交差点であり、未来に影響を与えることができる。「我は我が宿命の如何に拘らず、我れと我が身で此人間社会に貢献する自分の使命を案出し、此使命を果たす創造的努力に我が身を捧げたい。我は事故の自由意志によつて自分の社会的使命を決定する。我が使命其物が既に我れの意志によつて創造されたものである」p8

されど我等は社会人として、即ち社会から離れて孤立孤独に生存し得ないものとして、社会的に活動すべき使命を自から感ずる。〔中略〕我々が自己を尊重すればするほど、此尊重すべき個性を生み出した社会に対して、無限の感謝と尊敬の念とを同時に感ぜざるを得ないのである。p9

人格者は自己の尊厳を意識してゐる。自己を尊重するだけ夫れだけ自己を化育し生成した自然及社会環境に対して、敬虔の念を持ち、感謝の念に満たされてゐる。是れ人格的態度である。〔中略〕花に対しても人に対するが如き情調を以て物語る詩人は、花を人格化して、自分の生活に之を反映し、結局自分の生涯を一層清浄にし、優美にし、人格化する。社会に対しても同様、之を人格的に取扱ひ、之を一層人間化、清浄化、美化せんとする人は、夫れだけ、翻つて自分の生命を清浄化し美化する

・人格発展とコスモポリタン

吾等は云ふ、個人は須く世界全人類の為に生きよと。是れ世界主義の叫びである。されど是が為に全然国家的民族的団結を解除せよと勧むるものではない。国家心や民族心は世界主義に至る道程である、手段である。されど此手段に拘泥して、我等が愛国的排他主義の人となることは、大いに慎まねばならない。p37

・歴史の必然か人格の修養(=社会化)か
民衆は資本家に騙されるにはあまりに利口であり、社会政策も弥縫策でしかない。

私は資本主義と賃金制度の改廃を主張するものである。されど之を暴力によつて実現せんとするが如きことには、極力反対する者である。p41

例へば百万長者が相続税に七十万円課税されるよりも同じ七十万円を自ら社会公共の事業に投資して、自己の個性を其経営振りに発揮した方がよい。況や階級闘争の暴力的圧迫などによつて強制されるよりも、自ら率先して、自分の財産を社会化した方が遥かに資本家自身の人格を高める所以である。されば、如何にして資本家は彼れ自身を社会化し得るかを茲に考へたいのである。p43

大杉栄と「社会」
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倉田百三と「社会」
倉田百三『愛と認識との出発』(1921年)―社会と人間の発見 - tukinohaの絶対ブログ領域

「社会化」というテーマ
「社会化」に込められた意味は論者によってまちまちだが、次のような共通点は指摘できる。
1.個人主義の制限=社会的所有=私法の公法化
2.能力の最大化=個人に任せておくよりも、社会的なコントロールに委ねたほうがポテンシャルを十分に発揮できる、という考え。たとえば牧野英一にとって「生存権」の保障は「法律の社会化」であり、その生存権は「最後の一人まで戦わしめる生存権」であった。
「社会化」と「同化」の区別
松本潤一郎「社会化に就て」『日本社会学院年報』10巻1・2号、1922年。

sozialisierungといふ言葉の意味は訳して社会化と称せらるヽがこれは所謂民衆化といふ通俗の意味ではない。又学問上時として用ゐられる植民社会同化の意義と区別しなくてはならない。爰にいふ社会化とは産業の国有とその社会的管理を意味するものであつて、近来欧州社会党労働党等が産業組織改造を提唱するに当つて採用せんとする手段である。(p255)

参考:建部遯吾「東洋の大勢と青島の運命」『日本社会学院年報』2巻5号、1915年。

山東経営方策の第二は社会化政策である。社会化政策は要するに二つの大綱から成立つ、一は布教政策一は国語政策である。布教の教は宗教に非ずして仏教及神道である。……耶蘇教を弘めても、日本の社会化政策には何にもならぬ。(p614)

このように植民地を対象とした「社会化」から「同化」の意味が抜け落ち、植民地における社会政策を意味するようになるのは、同時代における植民学の動向と関連する。1921年の日本社会学院第9回大会のテーマは「内地植民問題」であったが、大会の冒頭で(受け入れ大学である東京商科大学長の)佐野善作から「内地植民」概念への疑義が提出される。これに対し報告者の高岡熊雄は自らの使う「内地植民」概念を次のように定義(稲田周之助報告も同様の定義を採る)。
高岡熊雄「研究報告」『日本社会学院年報』9(3・4・5)、1922年。

植民政策上より申しましたならば、内地植民は植民では無いのであります、今日用ゐられて居る内地植民は植民政策上の議論ではなく社会政策或は農業政策上の問題であります。〔中略〕今日学術上で、殊に農業政策或は社会政策で、最も狭い意味に解釈して居るのは何であるかと申しますれば、大きな農場を分割して、其処に中農或は小養〔ママ:小農か〕を腐食すると云ふのが内地植民になつて居る。(p24-25)

〔ドイツのポーランド人に対する同化政策が失敗したことに触れて〕朝鮮民族に対しても無論教育を施さなければならぬ、さうして朝鮮民族の教育が普及すればする程、果して朝鮮民族大和民族に同化するであらうかどうであらうか、却つて之が為に朝鮮民族の独立心を一層盛んならしめるものではあるまいか。(p35)

建部はこれに反対している。(建部遯吾「討議」同上)

代には朝鮮の勅語の問題、是は余談であると仰せられましたが、之に就きまして私は愚見を申し述べたい。それは朝鮮に於て直後の適用が出来ないと云ふことがありましたならば、それは勅語の適用が出来ないのでなくして、勅語に対する腐儒の解釈が、朝鮮に適用が出来なかつたのであります。既に勅語に於ても『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』と仰せられてあつて、若し之を朝鮮に施して悖ると云ふならば、勅語は偽りを仰せられたものとなるのであります。(p167)

・番匠健一「北大植民学における内国植民論と社会政策」『Core Ethics』8号、2012年。

上記の議論を整理すると、高岡が参照する19世紀末〔ドイツ〕に行われた政策では、「民族政策」的側面は「国家的内国植民」に対応し、国家が他民族の所有する土地を買収し入植者に払い下げる、他方、「社会政策」的側面は「私人的内国植民」に対応し、個人や団体により植民が行われ、国家は植民機関の補助に留まる、となる。高岡が〔『普魯西内国殖民制度』1906年で〕明確に述べているように、ドイツ内国殖民論は、対スラブ人種のための民族政策と、中小農の再興を通じての国内農政改革を目的とする社会政策という二つの側面があり〔後略〕(p356)

しかし、台湾への農業植民の失敗によって〔日本の植民政策から〕異民族政策としての側面は欠落し、同じ国家的内国殖民でも、北海道において大規模に行われた国有地の分割が行われたのみである。こうした国内植民の実情を反映しつつ、定義しなおされたのが日本社会学院における「社会政策」的側面の強調であり、植民地問題からの回避であった。(p357)


・法律の社会化
陪審制、法律事務の簡素化、事実の公開、法律文の平易化まで多様な内容が詰め込まれている。
・「議会を済した新法相の寛ぎ振/司法事務の社会化と温味注入の要を説く/秋には陪審制実現に努めん」『東京朝日新聞1920年8月3日朝刊。
大木遠吉法相(原敬内閣)の談話として

貴族院で握り潰された裁判所構成法や少年法案矯正院法案などの必要な事は、親父(喬任伯)の代からの持論なんだ、司法事務の独立は素より可いが実社会を離れての存在には果して何の意義を有つて居るか、司法事務其の物が社会の福祉の為めに存在する物である以上、実社会と親しい交渉を有つに何の不思議がある〔中略〕裁判所も警察も罪人を造り若しくは罰するを以て能事畢れりとしては駄目だ、なる可く罪人を少く犯罪を未発に防ぐ為めには先進諸国で現行してゐる陪審制度が緊要である

・「大本教の結審に裁判長疑義を叫ぶ/昨夜諸博士と共に法律の社会化を説く」『東京朝日新聞1921年5月25日朝刊
末広厳太郎、穂積重遠、吉野作造、仁井田益太郎が講演を行った「法律の社会化講演会」(中央法律新聞社主催、24日)のレポート。そこに東京地方裁判所刑事裁判長草野豹一郎も参加。以下は草野の講演。

凡そ刑罰の目的は現今の諸学説及犯罪事実観念より見て応報を主とせず社会の保護を主とすべきである、判決言渡公開も単に社会に対する公平を保つよりも寧ろ社会の保護に重きを置くが至当だ、従つて判決の言渡はもつと是迄よりもその犯罪事実内容の公表を具体的にせねばならぬ、大本教不敬事件の如きも世間は犯罪の内容に皇室に対する不敬のみならず強姦強盗罪の存在を疑ひつつある。この社会の疑惑に対しても裁判所はその予審決定をもつと具体的にするとよかつたと思ふ、私は将来裁判が社会の保安を害せざる限りもつと大胆に犯罪事実の具体的内容を盛て貰ひたい、殊に思想言論方面の犯罪に就て此の感を深くする

・「青鉛筆」『東京朝日新聞1921年5月27日。

帝大法学部の新思想家穂積重遠博士は大の法律社会化論者だが其の第一程として民法公論をスツカリ口語体にして誰れが読んでも解る様に書き直し此程出版したが日本で始めての口語文の法律書で出版会稀有の珍事と噂されて居る


新聞の「社会」欄および「社会部」について
新日本社の雑誌『新日本』(1906年に創刊、月刊誌。いつまで続いたのか不明)には、第1−2号のみ「社会人」というコーナーが。内容は政治家、実業家など「有名人」としか呼びようのないカテゴリの人々の近況について。石田雄は1895年に創刊された『太陽』の「社会」欄が「その他」的なくくりで使われたことを指摘しているが、それと似たようなものか。
高田早苗「大新聞と小新聞」1887年(松本三之介・山室信一編『近代日本思想大系11』岩波書店、1990年)では、大新聞/小新聞というよく知られた区分が一般に政治新聞/社会新聞という区分と重ねあわされていることを指摘(高田は大新聞/小新聞・政治新聞/社会新聞という区分が失効し、現在では両者が接近していると主張したいのだが)。

或人余輩の疑惑に答へて云く、大新聞と小新聞の区別は頗る無理なるが如しと雖も、再考するに於ては穴勝に無理ならざるを発見すべし、所謂大新聞は政治新聞の事なり、所謂小新聞とは社会新聞のことなり、即ち府下の諸新聞を大体より観察したる区分に過ぎずと。然れども余輩はこの説諭に服する能はず。近頃世間の新聞紙を観るに、所謂小新聞と称するものにして政治に熱心なるあり、所謂大新聞と称するものの中にも政治よりは寧ろ社会の記事を勉るあり、焉んぞ政治と社会の区別を以て大小新聞の区別と為すを得んや。(p84-85)

・杉村広太郎『新聞の話』(朝日新聞社、1929年)。
大正時代の「社会」欄について。
いわゆる三面記事について、「必ずしも市井の雑事のみを題材とせず、政治経済の問題をも社会記事的に取り扱ふこととなつた」

同じ政治記事でも、内閣の更迭に関する政治家の同棲、次の内閣の予想などは政治部で扱ふが、内閣更迭に関する一般民衆の心もち、次の内閣総理大臣に擬せらるる人の人物評・・・などは社会部の方で報ぜられる。p86

大正期において社会記事とは、それが「読者と記事中の人物との間に共鳴するところがある」p82.そのため「つまらぬ事を書き立てたやうであつて、実は人間のライフを説明すべき材料を提供することが多い」p83という。ゆえに、社会記事は政治記事よりも長い生命をもち、国境ももたない。
・「呉越の議員と社会記者の歓会/議場離れの若き気焔/政治の社会化を求むる叫び」『東京朝日新聞1920年7月20日朝刊
国会議員26名を招いた「都下各新聞社会部議会記事担当記者団「白青会」懇親会」についての記事。

政友幹事長望月氏は『我党の野次にも憲政同様の待遇を乞ふ』と如才なく松本氏は普選宣伝と政治の社会化を指摘し、木暮氏は『新議員として驚いた事は国家より党議を重しとなす政党気質だ』と喝破し『よろしく政治の社会化に依て現状を打破せよ』と叫ぶ


・文学の「社会化」
佐藤春夫「個人的文学、社会的文学」1929年『定本佐藤春夫全集』第20巻(1998年、臨川書店)
自然主義文学とプロレタリア文学の両立について。

過去を他にして今日がないが如く、個人を他にして社会は無い。この逆の事も言へるだらう。してみると個人を、個人の苦悶を出来るだけ深く書く事によつて、自らその時代は出てくるに違ひない。大体こういふ考へ方で、僕は徹底的に個人を描く文学といふものを大いに認めてゐる。それにしてもこれら個人の最大公約数ともいふべき社会性をも全く認めないではゐられない。それ故、この最大公約数を基礎にする算式の一つとしては社会性のみを取扱つた芸術の存在を承認する。しかもこの二つの芸術は、それぞれ違つた使命をもつて、あくまでも両立するものである。両立する事によつて、互ひにその不足をおぎなひ得るものである。(p207)

僕は考へるのだが、社会を描く文学に於ては、社会学から出発した美学が適当だらう。個人を描く文学に於ては、多分心理学あるひは精神分析学から出発した美学でなければ完全に評価は出来ないだらう。
それにしても、今日の日本の事情では、存分に社会を描く事が出来ないと同様に、徹底的に個人を描くことも決して満足には出来さうにない。
社会を描かうとすれば、秩序を破壊する意味で、当然禁止されなければならないし、個人の生活を本当に深く描かうとすれば、当然風俗を壊乱する意味で、重大なる一面を、伏字にしなければならない。
〔中略〕
今日横行してゐるプロレタリア文学などといふものも、それが横行し得るといふ理由は、やがてそれが如何に無力なものであるといふ反証にしか過ぎないではないか。(p208)


・家庭の社会化(or「社会の中の家庭」論)
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