米田庄太郎について(研究史・社会問題論)

・米田社会学への評価
「未完の体系」への関心
・河村望『日本社会学史研究・上』(人間の科学社、1973年)。

〔米田社会学では〕ジンメルにおける社会有機体説、総合社会学批判と結びついた、社会学の固有な対象領域を求める試みは十分理解されず、ジンメル社会学を社会の形式を対象とする学問とみなす立場は、社会を抽象的個人間の心理的相互作用のうちにとらえるその機能主義の立場とともに、必ずしも正しくうけとめられなかったのである。〔中略〕この時期の心理学的社会学は、主流である国家有機体説と対決することよりも、社会主義とみずからの社会学を区別することに力を注いでいたのであり、社会主義と区別された、社会主義に対抗する学問としての社会学の一潮流としてみずからを位置づけることによって、主流である国家有機体説と同じ「社会学」内の非主流ないし反主流として存続していったのである。(p287)

・銅直勇「米田庄太郎博士の「純正社会学」」1964年(『銅直勇著作集』めいせい出版、1977年)。

博士はコントやデュルケームのように、すべての社会科学を包括する百科全書的社会学の観念を排し、社会諸科学を社会学の系列科学であるとするような見解をとらず、社会学を一の特殊化学とされたのである。しかし博士の純正社会学はすべての特殊社会科学に一般的基礎を与えるものであり。この意味において博士は、ミルが各種の社会現象をそれぞれ対象とする社会的諸科学の自律性を認めながら、同時にそれらの社会的諸科学の社会学に対する依存を明らかにし、一般社会学の概念を論理的に明確に規定したのは、社会学史上におけるミルの創見あるいは功績であると〔『輓近社会学概論』で〕いっている。(p73)

・大道安次郎『日本社会学の形成』(ミネルヴァ書房、1968年)。
「〔日本社会学院年報の二論文から〕その後も彼は精励無比の研究を続けており、その内容に豊富さを加えたとはいえ、その骨組みに関しては、成長はあったとしても変革はなかったようである」(p256)
・浜口晴彦「日本社会学の形成と定位」児玉幹夫編『社会学史の展開』学文社、1993年。

〔建部社会学の衰退と〕代わってしだいに勢いをつけたのは、米田庄太郎の心理学的社会学であり、彼の西欧学界の精力的な紹介による、そういう動向の創出であった。学風を異にする建部でさえ「米田庄太郎博士は、其博覧強記、殊に周密な検討と倦むことなく厭くなき勤勉とは真に学徒の模範として何人の比肩をも容さぬ所」と賛辞をおしまない〔建部「社会学講座の創設」『年報社会学・第8輯』1941年、20頁〕。高田保馬も米田の精緻周到な研究によって日本の社会学の水準が世界のそれへ近づいたと評価した。高田の『社会学原理』は1919(大正8)年に出版されたが、多くは読まれるようになるのはそれから数年後のことであったと、高田自身が位置づけているところから、かくして日本の社会学は世界の水準に達したという自覚をもっていたのだろう。(p199)

参考:建部遯吾の総合社会学
戸田貞三「建部先生の思ひ出」『社会学研究』第2巻1集(1948年、118頁)に、建部が学生のために作り、研究室の目立つところに張っていたという社会学学習の規準が引用されている。

文科大学に於ける社会学の学習は之を左の五門七科に攝す。
第一部門社会学言論
第二部門純正社会学(社会理学、社会静学、社会動学)
第三部門応用社会学及社会誌学
第四部門教政学
第五部門社会学史及社会学演習
社会学を専修学科とする学生の必修に要する社会学最少限五単位は必ず五門の総体に亙るを要す。凡そ大なる体系を具ふる学問は偏局せる学習を以て其全貌を観るべからず。将来の高き深き造詣を致さんが為に広き立脚地を築き成すは文科大学一般の所期なり

「未完の体系」よりも具体化された社会問題論に価値を見出す先行研究
大正デモクラシーの一翼として
・鈴木正節『大正デモクラシーの群像』雄山閣出版、1983年。
社会学の米田庄太郎は、政治学吉野作造・大山郁夫、法学の美濃部達吉・佐々木惣一、経済学の福田徳三・河上肇と相並ぶ、大正デモクラシー運動を推進した有力な学者であった、といってもさしつかえないであろう」(p176)
米田の功績→労働者階級の価値(ブルジョアの「無限的営利心」と「労働感覚」の対比)の強調と、階級対立の必然性を説いたこと。階級対立を通して労働者の文化価値が発現し、現在の社会はより進化するというビジョン。
「そこには改造の方法論よりも、改造の必然性の原理を構築しようとする、学者としての情熱がみられたが、なんといっても政治・国家を軽視し、方法論を軽視したことが大きい。それは米田の議論が一般化しなかったひとつの大きな要因であったろう」(p186)
・児玉幹夫『社会学思想と福祉問題』(学文社、1985年)

最近十数年間に、日本社会学史に関するすぐれた業績が幾つか世に出たが、残念ながら米田庄太郎に関しては、その現代社会論を正面に据えて論じたものは少ない。米田社会学の精髄は、遂に完成されることのなかった体系よりも、むしろ、数多くの著作に具体化された現代の社会と文化についての発言の中にあると私は考える。(p159)

労働者問題と文化問題について:協同組合運動、労働組合運動、労働政党運動etc「「如何なる社会運動も只目前の個人的利益を目的とするに止まり、其の中に高尚なる国民的又は人道的理想を含まない時には、決して生気ある活動、健全なる発達をなす事は出来ない」と米田は強調する」(p167)

それでは、ブルジョア文化以上に高等な文化の諸原理の芽が認められるという労働者階級の精神的傾向はいかなるものであるか。米田はまず、労働者階級特有の社会的感覚として、「労働感覚」に注目する。それは労働を尊重し、これを人生の最高原理と認め、一切の社会的・政治的・人格的力の根源と認める感覚である。ここに労働というのは筋肉労働と精神的労働とを含むものである。この感覚は論理的に精錬されて、人格は労働によって発達するという思想が確立され(労働人格思想)、これを根底に労働に関する権利観念が確立される。この時、人間は、もはや金銭によって評価される「物」として扱われることはなく、人間を人間として相互に意識させるに至り、狭い階級意識は人間を人間として相互に結び付ける人類意識として発達する。〔中略〕もちろん、労働者階級の生活は現実と密接不可分であるから、彼らの理想主義は現実遊離の夢幻的なものではない。それは、「現実に即して、しかも現実に囚はれず、現実を突き抜けて、或物をつかみ、其の或物を以て現実を改造せんとする理想主義」であって、かつての理想主義に対して新理想主義とよばれている。(p170-171)

最後に一言付言しておきたいのは、米田が階級について語るとき、「勢力」という概念がしばしば登場することである。彼はこの概念に何ら明確な規定を与えていないし、用い方もさまざまであるが、頻繁に出てくる言葉であるから、かなり重要な概念であった筈である。いささか古い話になるが、昭和三一年に横浜で日本社会学会が開催されたことがある。その折、高田保馬が、ある報告者に対するフロアからのコメントの中で、自分の勢力概念の規定は、タルドの権力論から示唆をうけたものだと発言したのを今でも良く覚えている。(p174)

・松下武志「米田庄太郎の社会問題論の再検討」『現代の社会病理』14号(1999年)
社会学体系論と社会問題論の双方を扱ったもの
・秋元律郎『日本社会学史―形成過程と思想構造―』(早稲田大学出版部、1979年)。
明治末〜大正期の心理学的社会学(遠藤隆吉、米田庄太郎ら)の勃興について

いうまでもなくそれは、都市社会主義の主張にもみられるように、ようやく産業資本の確立期を迎えた日本において、都市が社会問題の発生源となりつつあることをしめすものであった。そして同時にそれが、社会学じたいに対応をせまる問題であったことは、前章でも述べたとおりである。
そしてこうした社会主義の動向が、けっして社会学徒に刺戟をあたえずにはおかなかったことは、高田が、のちに「社会主義へのあこがれが私の社会学への興味を深めていった」と述べているところからもうかがえよう。こうして底流にさまざまな動きをひめながら、明治期の社会学じたい、理論のうえでも、また現実にたいする対応のうえでも、ひとつの転機をむかえることになるが、しかし大逆事件の余波のなかで現実社会への志向をさぎられていった社会学が選択しえな途は、理論的分野にしかなかった。その先端をいったのが、個人主義的な思想を背景につよくひめた心理学的社会学だったのである。(p122)

国家主義的な建部社会学との対抗関係を重視。
・中久郎『米田庄太郎―新総合社会学の先駆者―』(東信堂、2002年)


社会問題論
・田中和男「大原社会問題研究所の設立と米田庄太郎」『同志社法学』59巻2号(2007年)
(1)大原社会問題研究所への参加←谷本富の紹介。
米田のラインから戸田貞三、臨時嘱託として銅直勇が採用される。
高野岩三郎の加入と、その後の東大経済学部の影響力増大、そして河上肇の加入を契機として米田は辞職(1922年)

大阪朝日新聞』は同日の夕刊(12月24日付夕刊)には一方の当事者である米田と河田のインタビュー記事が載せられている。〔中略〕タイトルには「社会運動は廃めて/今後は純研究に/脱退説ある米田博士は語る」となっている。〔中略〕米田の認識では、社研創設の意義を研究だけではなく「社会運動に携はる」ことにも見いだしていたということであろう。〔中略〕「純研究」に集中する面では、大原社研に係わるのと同時進行的に、米田を取り巻く環境が大きく変化した。(p1039〜1040)

米田の博士号取得が1920年
(2)賀川豊彦『貧民心理の研究』(警醒社、1915年)の序文を執筆。

夫れ吾人が純知力的に宇宙間の現象を考察するに当ては、先づ其の無機的な事物たると、有機的な事物たると、又心理的な事物たるとを問はず、総て其の個性的、個別的な方面は出来るだけ看過し、唯其の通有的、普遍的な方面のみに目を着け、意を注いで之を考察する傾向〔中略〕更に一切の性質を分量に還元し、性質的差異を分量的差異に引き戻して、之を説明せんとする傾向を発達させるのである。されば宇宙人生一切の現象を、総て同一の「エネルギー」、或は物質の千差万別に表現せるものに外ならぬと観じ、一切の性質の差異を、分量の差異に還元して説明せんとする自然科学的考察は、純知力的考察の精神を最もよく発揮し、円熟させたものと云はねばならぬ。宇宙を「エネルギー」、或は物質の一元に帰して観想し、定質的より愈々定量的に進み行かんとするが、即ち自然科学の精神であるが、純知力的考察の発達は、結局此処まで進んで行くにあらずば徹底しないのである。(p542)

都会人は薄情であるという説があるが、正しくない。田舎人の同情は個人的に働くのに対し、都会人の同情は部類的(=貧民とか、孤児とか)に働くという違い。現に慈善事業は都会で発達している(p544-548)
神秘主義の流行と頽廃
神秘主義が流行する「不順当的原因=病理的原因」のひとつとして、頽廃を挙げる。米田がモレルのいう意味での「頽廃=変質」言説圏内にある例証(p701〜)。
(参考:水谷史男「頽廃の文明・不遇の社会学 米田庄太郎」生活研究同人会編『近代日本の生活研究』(光生館、1982年)

それぞれの階級心理はいずれにせよ資本主義精神に影響されており、特に諸階級に共通して表れる共同心理状態については、先の過渡期の社会心理過程として説明される。つまり過渡期の生活条件の変動によって、従来慣れていない形式や刺激がたえず多量に人々を襲う。すると既存の人格の統御力が弱まり、心理的統一が破れ、人格的エネルギーの表現が病的な性質を帯びてくる。〔中略〕米田には、ある国民の文明が一定の発達程度に達すると、必ず自ら頽廃し滅亡に至るのが人類普遍の歴史的運命であるという歴史観があり、文明の発達した国ほど頽廃現象が現れ、一国内でも大都市ほど頽廃が顕在化しやすいと考えた。彼はおそらくそこに危機感と使命感を感じ、歴史の神を征服して頽廃を予防し、文化の健全なる発達を図る方法を考えた。その方法とは、社会衛生と優生学であった。(p120-121)


・米田庄太郎『現代文化人の心理』(改造社1921年)。
京都大学での連続講演(1921年8月)を基にしている。
第一講 文化と文明==文化の社会学概念
流行語としての「文化」……ドイツ語kulturに由来(ex.文化価値、文化学)
ドイツのkulturと英米civilizationを対比し、kulturは国家なしでも考え得るが(精神的・民族的)、civilizatioはそうでない(デモクラシーと結びつく)という。米田自身も「文化」という言葉を社会の物質的・精神的方面を包括する概念として使用するが、政治的・社会組織的方面は「文化」とは別に考える、と述べる。社会組織の発達と文化の発達は車の両輪である、と。

要するに社会組織の進化と文化の発達とは、相互に他の上に影響を及ぼし、相伴ふて進み行くものであるのである。(p52)

私はさきに少しく述べて置いた様に、文化と社会組織とを区別して考へ、文化は社会組織を地盤として産出されるものにして、一定の文化は一定の社会組織を地盤として産出されるもの、そうして文化の発達は、社会組織の進化に準じて行はれるものと認めるのである。(p107)

・第二講 文化の哲学的研究=文化哲学の概念及び根本問題
文化とは何か……人生の目的(=欲望の充足)を達成するための協同形式。欲望の充足能力が妥当性であり、妥当性を有するものを「価値」と呼ぶ。文化とは一般的な(共有された)価値の総体。
新カント派についていろいろ(省略)
・第三講 文化発達の社会学的原理と現代文化の一般的特質=ブールヂヨア文化とプロレタリア文化
・社会と国家
「夫れ自身独立して、己れに属する人間の生活を、完全に営ませる事の出来る団結と、然らざる団結の区別」について、前者を充全社会と呼び、「例えば国家とか、独立せる種族とか」を例に挙げるp110(高田保馬社会学原理』との対比!)。後者はさらに部分社会(家族・村落など)と機能社会(学校・会社)に分かれる。
充全社会も「階級的に組織されたもの」と「階級的に組織されていないもの」がある。前者が国家で、後者が原始社会。階級的に組織された社会=国家にもいろいろあるが、現代はブルジョア文化が指導的立場にあり、そこからプロレタリア文化への移行期にある。

此くて私は厳密なる意味にて現代社会と云ふは、即ち有産階級に対して労働者階級が支配階級の地位を争ふて居る社会を意味するのである。されば現代社会は社会組織の進化上から考へると、一の過渡階段を意味するものである。(p121)

・社会的感覚→社会的理性→文化

要するに私は支配階級となる各社会階級には、其の階級特有の一定の社会的感覚と称す可きものがあり、又其の社会的感覚によりて、其の階級内における理性の発達が根本的に促がされ、又規定されると云ふ仮説を根本原理となし〔中略〕以て一定の社会階級特有の社会的感覚及び理性の本質を表現し、発揮し、客観化するものとして、一定の文化即ち其の階級特有の文化が発達するものと見るのである。(p123)

ブルジョア感覚=財産感覚→ブルジョア理性=資本主義精神→ブルジョア文化
資本主義精神の特徴として、米田は(1)無限的営利心p133、(2)経済的合理主義p137の二つを挙げる。(2)は単に合理主義とも呼ばれ、科学的合理主義とも同一視される。
ブルジョア文化の特徴として、一切のものを量的価値に還元する傾向や、合理主義=「最少努力の原則」(p142)、合理主義を追求するための自由主義などが挙げられる。

尚ほブールヂヨア文化の効果或は長所を考察するに当つて、終りに吾人の注意せねばならぬことがある。夫れはブールヂヨア文化は文化の高等なる発達の必然的一段階にして、ブールヂヨア文化の階段を通過せずしては、文化は到底完全な、或は大に高等な発達を成し遂げ得ないものであると云ふことである。経済生活及び合理主義、殊に自然科学の著しき発達、即ち自然の征服の著しき発達を根本条件或は手段となさずして、文化は到底完全な、或は大に高等な発達をなし得るものでないのである。〔中略〕そうして又此の点に注目することによりて、吾人はブールヂヨア文化の真価を理解することが出来るので、夫れはつまり文化の完全なる発達に対して、必要欠く可からざる手段或は条件ではあるが、しかも矢張り手段或は条件であつて、目的ではないのである。吾人はブールヂヨア文化の手段的性質或は条件的性質を観破することによりて、始めて其の本質をよく理解し、其の真価を正当に評定することが出来ると思はれるのである。(p155-156)

先づ此の合理主義的傾向に付て注意す可きは、夫れは現代企業家をして、伝来の観衆や道徳に囚はれず、又感情に支配されずに企業を起し、又之を経営するに至らしめたことである。〔中略〕然るに現代企業家は先祖伝来の家業のの観念を全く失ふて居る。(p220)

そうして今日労働者階級の要求する労働の自由なるものは、決して夫れ自身独立なるものでなく、ブールヂヨア自由主義の連続或は結論に外ならぬものである。併し人間の自由なるものは、本来手段的性質のもの、或は文化の最高発展の条件に外ならぬものである。〔中略〕人間の自由は夫れ自身に於て価値のあるものでなく、夫れによりて最高文化価値が実現されることによりて、価値あるものとなるのである。(p158-159)

ブルジョア文化に代わる労働者文化とはいかなるものか。
・労働者感覚→労働者意識(労働人格説・連帯思想・新理想主義)→労働者文化
マルクス主義は合理主義・唯物論というブルジョア文化の残滓を引きずっており、来るべき労働者文化とは異なるものだ。

そすいて私の労働感覚と云ふは、つまり労働に対する鋭き感覚、労働を非常に尊重し、之を以て人生の最高原理と認め、一切の社会的、政治的及び人格的力の根源を認めんとする念なぞを意味するのである。(p176)

この労働(者)感覚は、肉体労働だけでなく精神的労働にまで拡張されなければならない。
↑この辺の意図が取りづらいのだが、「人類の連帯」を労働感覚に含めるという話とも関連。
新理想主義について

労働者階級の生活は最も多く現実に密接するものであつて、彼等にありては現実を離れることは到底不可能である。されば彼等の理想主義は現実を離れないで現実に即するもの、しかも現実に囚はれないものであらねばならぬ。換言すれば現実に即して、しかも現実に囚はれず、現実を突き抜けて或物を掴み、其の或物を以て現実を改造せんとする理想主義、即ち今日の哲学に於て新理想主義と称せられるものであらねばならぬ。(p187-188)

・労働者階級の教育の必要性p190

要するに労働者階級の精神的教養が大に発達せずして、只彼等の社会的及び政治的勢力のみが大に増長することは、文化の高等なる発達、人類の真の進歩の為に、決して喜ぶ可きことではないのである。(p191)

・第四講 現代社会の階級及び其の心理
労働者階級・ブルジョア階級と神経病

労働者階級は、其の発生の始めより近頃に至るまでの労働状態及び生活状態に於ては、彼等の神経は大に興奮し、彼等の身心は大に疲労し、彼等は神経衰弱に陥り、神経病的とならざるを得なかつたと考へるのである。〔中略〕然るに近頃労働時間が法律上、又は労働組合の運動によりて、実際上段々短縮せられ、種々なる社会保険が発達し、又養老年金制なぞが設けられて、労働者の生活に於ける神経衰弱の原因となる事柄は段々減少して居る。されば労働者の神経衰弱は、早晩減弱するであらうと希望し得られるのである。然るに現代企業家や、ブールヂヨア階級の生活にありては、彼等をして神経衰弱に陥らす原因となる事柄は、一向減少しないのみならず、却て増加して行くのでないかと思はれる。(p246-247)

さきに述べし如く、資本主義的企業は近代企業家の産出せるものであるが、然るに其後の資本主義的企業が大に発達するに至つては、夫れは企業家を離れて夫れ自身独立なる存在を有し、却て企業家を強制するものの如くになつて居るのである。そうして今日の企業家は自から企業を支配するよりは、寧ろ企業に支配せられ、企業に迫られて、無限的に営利を求めなければならない様な状態に、陥つて居るのである。(p303)

・第五講 自然人と文化人、現代文化人の心理の一般的特質及び現代女子の心理
病的な「人格的エネルギー」

要するに右に述べしが如き〔過渡期的社会〕状態の下にありては、人格的エネルギーの表現は一般に病的な性質を帯び易いので〔後略〕(p283)

尚ほ右の傾向を更に深く分析すると、夫れはつまり目的表象のエネルギーの減弱を、意味するものなることが発見されるのである。夫れ目的表象のエネルギーが、大なり小なり減損されると、人間の努力は熱狂的な無分別か、又は軽はづみな盲信かに従ふて、順当な場合には、仮令其の実現が不可能とは見えなくとも、少なくとも其の実現が甚だ困難と見ゆる様な目的に向つて、盲目的に突進して行くのである。(p283-284)

・第六講 文化の発達と人類の運命
ちょっと丘浅次郎っぽい?文化的自殺とそれに抗する社会学について

今文化哲学に於ては、さきに第二講に於て述べし処によりて知らるる如く、文化を生物としての人類から切り離して考察して居るのであるが、併し社会学に於ては生物としての人類より目を離すことが出来ない。(p327)

労働者階級の現実生活から遊離した考えではだめだ、という部分(p187)に対応?
歴史上、文化の発達した国はすべて滅んでいる。「国民的自殺或は自滅」(p330)
その「内部原因」として、米田は「国民の頽廃」(p342)を挙げる。これには二つの意味があり、それぞれ別の対応策がある。
(1)「良質の悪化」=環境の悪化による人間の質の低下←優境学euthenics
(2)「良種の減少」=遺伝的問題←優生学
この両方が大事、というのが結論。米田はタルドの弟子なので前者を強調するのは当然だが、後者も重視。


功利主義について
参考1:米田庄太郎『現代社会問題の社会学的考察』(弘文堂書房、1922年)。

併し早大の近代労働者の精神的生活の堕落の原因として、吾人が更に注意す可き重大なる事情がある。夫れは早大の〔ママ〕近代労働者の大部分は、先祖代々住み慣れた村落を去り、伝来の職業を捨てて都市に集中し、而して全く新しき環境に入りて、新しき職業に従事する人々であつたと云ふ事である。此の事情は従来彼等の生活の精神的支柱であつた倫理的及び宗教的伝説を、全く彼等の心から消滅させた。(p232)

参考2:石川天崖『東京学』(育成会、1907年)。
「東京そのものが永住を許さないようにできている」

見らるる通り東京人即ち純粋の江戸子は、神経過敏になつて居るから、一寸とした事にもよく気がつき如何にも敏捷で如何にも如才がないけれども、既に大いなる精神力の消耗と云ふ事が遺伝されて居るから、大事に当り艱難に処するとか、或は雨雪風霜労働等の事に向かつては甚だ弱い者となつて居るのである。此の精力消耗と云ふことは実に恐るべきもので、東京では小供の時から既に田舎の小供よりも精神力を余計に使用するのである。(19頁)

夫から尚一つには、東京と云ふ所は各種の機関の設備が十分であると同時に、又各種の誘惑機関と云うものが能く整備されて居る。夫が為に東京生活に於ては、人の高尚純潔なる精神的趣味と云ふものが常に此の誘惑の為めに傷つけられて居るのである。(p21)

若し東京に永住すると云ふ事ならば、自分の種族を消滅させる本であると云はなければならぬ。之は理屈に於て人は東京に永住するなと云ふのではない、如何に永住を仕様と希望して見たところで、東京其の物が其の種族の永住を許さないやうに出来てゐる(p22)

→東京生活に成功するための方法「東京学」が必要である、と。その中心は交際に関する内容であるが、それは徹底して実利的なものである。

以上は交際法の一般につき大体を述べたのである。勿論東京学に於ける交際法であつて、之が必ずしも道徳より割り出した作法であるとは言はれぬかも知れないが、東京生活の生存奮闘の為には必要なる所の交際法であると言はねばならぬ(p52)

参考3:佐藤春夫「のんしやらん記録」1929年『佐藤春夫全集』第7巻(1998年、臨川書店)。
円本ブームを皮肉る内容。未来都市で薔薇に変貌する手術を受けた主人公はある家の窓に置かれ、その家の女たちが模擬紙幣の図案集を読んでいるのを見る。

当時文芸は、「いかにして金を儲けようか」とか「若し自分が百万長者であつたならば」といふ近代文化の唯一の生活題目を文字によつて表現する方法は一世紀も前にすたつてしまつて、今日ではどの定期刊行物も単行本も、また一円版全集も〔中略〕同一の題目に対する、より直接的な効果に訴へる手法として、最近は殆んど悉く模擬紙幣の図案集になつてゐた。(p64)


・サン=シモンと米田
米田庄太郎『現代社会問題の社会学的考察』(弘文堂書房、1922年)。

抑々第十九世紀に入るまでは、学者思想家が社会生活を問題とする場合に、一般に其の興味の中心、或は注意の中心となれるものは、社会が如何に支配せらるるかと云ふ問題、即ち国家組織或は政治組織の問題であつた。而して社会生活の他の諸問題、例へば経済や宗教の問題の如きも、只夫れが国家と関係を有する以上に於てのみ考察されたのである。〔中略〕而して社会生活の考究に於て、国家組織問題或は政治問題よりも更に根本的なる問題の存在することに学者が注意して来たのは、一般に第十九世紀に入ってからで、殊に佛国の学者が最とも早く此の点に注目して来たと思ふ。是れ佛国の当時の社会状態が、此の点に観察力の鋭敏なる学者の注目を惹くに最も適当であつたからであると思ふ。要するに第十八世紀末の大革命以来、佛国に於ては国家組織は屡々変更せられたが、而も夫れによりて国民生活は実質上別段に改善されたとは思はれなかつたから、茲に警眼の思想家は真に国民生活の改善を齎らすのは、単に政治組織の改変だけではなく、更に夫れよりも一層根本的なる或物であることを覚り、其の或物を探求して以て国民生活の真の改善を図らんとするに至つたのである。(p121-122)

⇒「今此傾向の発達に付て余はサン・シモンの思想は重要なる意味を有するものと考へ」(p126)
米田のサン=シモン理解

彼はオーエンやフーリエの如く、人為的に小共同生活団体を設立することによりて、労働者階級の解放を図らんとするのでなく、社会主義的精神に於て資本主義を改造すること〔=科学的・産業的組織の設立〕を以て、其の解放の基礎条件となさんとするのである。(p143)

しかし米田が共感するのはここまで。

併し彼は其の新社会組織を実現せんとする方法に於ては、彼の時代の一般の社会主義者と同じく空想的になつて居る。〔中略〕夫れは総ての人類の解放の機関たる可きものは、有産者階級であると見たる彼の思想である。(p144)

⇒「而して其処にマールクスの偉大が明らかに認めなれるのである」(p146)

但し余はさきに述べし如く、今日社会問題を直ちに経済問題と見るも、亦労働者問題と見るも穏当でなく、今日では社会問題は夫れよりも遥かに複雑な又深大なる問題となつて居ると見るのである。(p149)

⇒労働者運動の「精神的方面」の重要性


・米田と優生学、獲得形質の(部分的)肯定
米田庄太郎「生物学より社会学へ」『日本社会学院年報』2巻5号、1915年。

余輩はメンデル説の用語を使ふて左の如く自問自答することが出来る。曰はく生殖質の変化如何と云ふことは暫らく考へないで置いて、教育的培養の手段によつて或傾向を退行せしめ、他の傾向を支配的のものとならしむることは出来ないであらうか、随うて教育と称せらるるものによつて淘汰を行なふことは出来ないであらうかと。蓋し教育は只各個人の形質に従ふてのみ行はる可きものであるからである。〔中略〕一定の形質はよし消滅しないにしてもとにかく潜在的となり退行して居る。〔中略〕而して教育が若し合理的であり、生物学殊に「ゼネチツクス」の指導の下に行はるるならば、吾人は教育的力に或価値を認めねばならないのである。(p660-661)

而して之れと同時に余輩は欠陥あるものに教育を施すことは果して社会的に有益であらうか、之によりて何等か得る処があらうかを疑はざるを得ない。彼等は順当的〔ルビ:ノルマル〕なものとなることが出来るか、又外観上そう見えても、彼等の子孫はやはり常に社会の危険物ではあるまいか。彼等は生物学的に見て順当的な完全な発達に必要なるものを欠いて居るのであるから、彼等の子孫は自然劣悪で頽廃的ならざるを得ないのである。此事は既に幾多の研究によりて証明されて居る。欠陥者は実に犯罪者、淫売婦、狂者、浮浪者、乞食等の種であるのである。(p661)


タルドについて
・中倉智徳「ガブリエル・タルドの『経済心理学』における労働概念について」『Core Ethics Vol.4』(2008年)。

この反復―対立―適合は、ヘーゲル弁証法およびダーウィンの進化論からの影響と不満に由来し(p227)

労働における「疲労」と「退屈」――テーラー主義批判の先駆け

タルドにとって、工場労働の問題はより疲労度を抑えるために精神物理学的な知見や実験を利用し、身体動作を科学的に観察し分析し、以前よりも疲労度が少なく効率的な動作を発見したとしても、労働者に対して規律によってより注意を払うことを強制的かつ持続的に反復させるなら、問題はまったく解決しないということになるだろう。さらに後に述べるように、「この疲労という現象は、個人心理だけにかかわっているのではなく、集合心理にも属している」のである。(p230)

疲労と退屈を緩和させてくれるもの→職業に対する敬意
・村澤真保呂「ガブリエル・タルド社会学とその現代的意義について――社会科学の専門性と政治をめぐる考察――」『国際社会文化研究所紀要』15号(2013年)。

〔「差異の模倣」とその反復について〕タルドの思想は、根本的にはここで述べた「差異と反復」という原理に帰着する。しかし、さらにその原理がもとづく世界観は、当時および現在の社会科学が前提とする世界観とはまったく異質なものである。〔中略〕まず「模倣は内部から外部へと進む」というのは、ある個人精神の内側に生じた「差異」(それは発明であったり、あるいは外国からの模倣であったりする)は、「反復」をつうじて人々のあいだに広まるだけでなく、しだいに成長して具体的な形態をとるようになる、という意味である。〔中略〕このようなタルドの思想が、可能態から現実態への移行として世界を捉えるアリストテレス由来の自然哲学の流れにあることを見て取るのはたやすい(実際、タルドは序文でそのようなことを述べており、また未公刊の論文に「可能態」という題を付けている)。(p248)


・京大を辞職した理由について
中久郎『米田庄太郎―新総合社会学の先駆者―』(東信堂、2002年)。
文学博士の学位取得に関する問題

米田が文学博士の学位を受けたのは1920(大正9)年5月26日付であり、同年7月5日に教授発令が行われている。この年の7月6日付で学位令が改められているので、米田の学位は旧規定によるものであった。なお新規定による文学部での文学博士第一号は高田保馬であった。「社会結果論」の論文により1921年12月20日付で受領されている。米田は旧規定により「学位を授くべき学力ありと認められたもの」として文学博士会の推薦により文学博士の学位が授与されたのであったが、そのとき新規定により「授与を受けた日から6か月以内に論文を印刷公表せねばならぬ」ことが学位授与要件として求められた。米田は、この求めに応え学位論文の公刊ができなかった。それが教授職辞任の理由に関係したのではなかったか(というのが生前の臼井二尚教授からうかがった実情のようである)。(p21)

一方、米田の生存(1933年)にまとめられた「アイザック・ドーマン師追憶録」の「縁故者略歷及消息」には「神経衰弱」が原因であるとされている。この略歴が本人の筆によるのか、編者によるのかは不明。「神経衰弱」とは米田が辞職の理由を人に話す際の公式見解だったのかもしれない。米田はこの追悼録の寄稿者。
松島篤編『アイザック・ドーマン師追憶録』(教会時報社、1933年)。

大正十四年三月、神経衰弱の為め、京都帝国大学教授を辞し、講師を嘱託されて今日に至る。(p149)