法と社会

【明治期の社会防衛主義―過渡期の理論として】
・刑法の道具的理解
富井政章『刑法論綱』1880年(信山社、1999年)

要するに刑法は一国社会の秩序安寧を維持するの要具に外ならす社会先つ平穏ならす内より其秩序安寧を害することを得は如何して其独立と進歩を望む可けんやp14

・天賦人権批判
富井政章「社会の前途」『国家学会雑誌』2巻15号

近時人類学生物学比較解剖学生理学等の諸学科の大に開けてより自ら実験的に人類を研究することとなり遂に人類と雖も草木鳥獣と全く異ならさる自然界の一生物たることを発明し以て従来一般に行はれたる人類を目して天賦の心性を固有する一個の別物とする如き無根の謬説をして其命脈を保つこと能はさるに至らしめたりp296

・生存競争と刑法
富井政章「社会の前途」
(1)無数に存在した人種は生存競争を経て「欧羅巴人種」「蒙古人種」「黒人種」の三つに収れん。このうち「黒人種」は勢力が弱く、「蒙古人種」も「ヨーロッパ人種」によって圧迫されている。朝鮮や中国も頼りにならず、「独り日本のみ進みて欧人種と競争せんとす」p271
(2)一方で時勢の変化に伴い、生存競争のあり方も変化。「自己の利害と社会共同の利害との分離すべからさるの理か漸次に明になり」p272
⇒刑法も社会の変化に合わせて基礎を変化

優勝劣敗に放任すれは之にて事足れりと雖も苟も社会共同の幸福を以て進歩の方向と定むれは独り懲戒の目的を達するを以て足れりとせす又同時に犯人を救正して成るへくは之を善道に復すの目的なかるへからす蓋し国法に触れて罪を犯す者は其情固より悪むへしと雖も又遠く原因を尋ぬるときは社会上の不平均必す其多きに居るへし若し生存競争の方法今少しく平均するを得は天下に幾千万の犯罪人を滅するに至るや知るへからすp276

・主権と統治権の未分化、主権維持の用具としての法
富井政章『民法原論 第一巻』1903年(有斐閣、1922年)
道徳・宗教・法律の違いについて
「法律なるものは畢竟統一の力に依りて強行せらるる規則に外ならす」p2

時世稍々進み同族相親しむ感念発達し此に始めて道徳の基礎定立したるものと思はる而して当時族長は其配下の子女を統御するに必要と認めたる規則を強行せりと伝ふ是法律の起源と見るへきかp2

要するに法律は統治権なる観念と離るへからさるものにして畢竟国家的共同生活の一現象に外ならさるなり
此の如く法律は人類共同生活の必要上より統一の力(主権)に依りて存立し且強行せらるる規則なりp3

法律なるものは畢竟一の政治的団体を形成する人類共同生活の秩序(準則)にして統一の力に依り保持せらるるものを謂うp8


【刑事人類学の受容】
二葉亭四迷
内田魯庵二葉亭四迷の一生」より
明治20年代前半(官報局で働いていた時期)の二葉亭が、呉秀三『精神啓微』『精神病者の書態』を愛読し、続いてロンブローゾ一派の著書に関心を持ったこと。日本の教育家や宗教家がこれら科学的知識を欠くために、彼らによる救済事業は徒労に終わっていると批判。

この説はモーズレーやロンブロゾから得たので、二葉亭自身の創見ではなかった。かつ近世心理学の片端をだも噛ってるものなら誰でも心得てる格別目新しくもない説であるし、今〔1925年〕ではこの一派の学説は古臭くなってる。が、二葉亭は総てこの見地から人を見ていた。

明治30年に官報局を辞職。すると、後の「大陸浪人」的な考えが強くなってくる。

「右の手に算盤を持って、左の手に剣を把り、背ろの壁に東亜図を掛けて、懐ろには刑事人類学を入れて置く、こうでなければ不可ん、」などと頻りに空想を談じていた。尤も座興の戯れで、如何に二葉亭が世間に暗くてもこれほど空想的では決してなかった。

ちなみにガルの骨相学については、コントを介して西周によって紹介されている。(『生性発蘊』西周全集』第1巻、宗高書房、1960年、38頁など)。
・「脳の大小と智力との関係」『哲学会雑誌』1巻7号、1887年。

脳髄と精神作用とは常に密接の関係あるものなることは世人の夙に知る処なるが此に付脳髄の大小は精神作用特に知力の多少と直接の比例を為す如く考ふるあれど是れ誤なりドクトルアドルフ、ブロッフ氏が人類学雑誌に人間の智力と脳髄の大小の関係に就て一篇を掲載せるを見るに其帰結する所は二者の間には一定不変の関係なしと云ふにあり其理由は極めて智力に富たる人にして脳の小なるあり又之に反して余り勝れたる智力なくして大なる脳を有するものあり(p372-373)

・「人の印象[二]泉鏡花」『二六新報』1914年3月16日

「〔鏡花の奇行の紹介に続けて〕「天才は狂気なり」とは、ロンブロゾーの説である、「狂人」が「天才」なのか、「天才」が「狂人」なのか、それは知らぬ〔中略〕私は言ふ、鏡花の「鏡」は、狂人の「狂」であるが故に、初めて其処に彼の価値があるのではないかと……」。

・刑事人類学への批判
ロンブローゾ説は人口に膾炙したものであったが、専門的な議論では不人気。主な理由として以下のふたつが考えられる。(1)ロンブローゾの唱える「生来性犯罪者」は欧米人のバイアスがかかっている。(2)「生来性犯罪者」がいるとして、その認識が実践に与える影響が不明であること。
⇒フェリによる犯罪原因の三分類論が広く受け入れられていた(ex.小河滋次郎「犯罪の原因及之が救治法」『社会』2号、1899年)。

昔から日本で悪い人間を書けば顔中毛だらけの熊かと云ふ様なイカめしいのを書きますが欧羅巴では反対に髯の無いのを犯罪人の特徴として髯の無い人を見たら道をよけねばならぬと云ふ諺があるさうです或は又〔犯罪人の特徴として〕頬が高いと云ふこともある左すれば日本人などは犯罪人が多い訳で蒙古人種は一般にさうである是等は大に間違つた説であらうと思ふ(p15)

米田庄太郎『現今の社会学』私立岡山県教育会、1906年

先生は数多の犯罪人を研究して犯罪人種の形質特性を定められて居ります、其れに付て面白いのは先生が欧州人中に於ける犯罪人種の特性と認められる形質は日本人支那人等通例モンゴリアン人種と称せらるるものに一般に存在する形質で先生の犯罪人種なるものは大いに日本や支那人に似て居ることである、ロムブロソー氏の説は一時大に世の注意を惹いた、併し一層詳しき研究の結果犯罪人種の様なもの即ち先生の云ふ犯罪人類型なるものの存在せぬことが明らかになりました(p71)

岡百世「犯罪学論」『社会』16号、1900年。

実に人類的研究によりて生理的骨相的遺伝的の関係は之を知悉し得るも、既に其の先天的必然的なるものたる以上は吾人はいかでか之を実際に応用して犯罪救治の上に効果を収むるを得ん。〔中略〕本より或程度迄は人類的物質的原因の知識は実際に応用して利益あることなきに非ず、然れども社会的原因の知識が如何に実用上其功あるかを考へ至らんか人類的物質的原因の知識は唯た科学的研究に於て得たる単なる知識なりといふも不可なかるべし。(p32)

「単なる知識」に過ぎないものとされた刑事人類学が犯罪研究の主役となるためには、刑罰観の根本的な転回が必要であった。
⇒先駆としての中江兆民
中江兆民 - tukinohaの絶対ブログ領域


判例法律学
次のような流れを想定できる。
大正期において柔軟な法解釈(自由法的な)による判決例が出てくる
判例研究の重要性が認識されるとともに、上記の判例を理解するうえで適合的な自由法論への評価が高まる。
⇒上記の認識が裁判所へフィードバックされ、裁判官自身が「法の創造者」を自認する。
⇒しかし法学者(牧野や末弘)にとって裁判官自身が「法の創造者」を自認するのは好ましい事態ではない(それは法の無秩序化につながる)。判例法源性は、法学者による判例研究(=法の安定化)と不可分。


判例法源性を認めない立場
富井政章「自由法説の価値」『法学協会雑誌』33巻4号、1915年。
富井は新派刑法学の紹介者として、法律解釈に「社会の必要」を盛り込むことを提唱。しかしその富井が、一見すると立場の近そうな美濃部達吉らを「新自然法派」と呼んだうえで批判を行う。
(「自然法」を「畢竟一種の主観的理想に過きす」と批判したことの延長線上にある。『民法原論 第一巻』1903年)
制定法および慣習法のほかに「学説及ひ判例」を法源に数えるものがあるが、「其誤れることは今や殆と異論なき所なり」p59彼らは裁判官に立法的機能があるとみなし、社会と一致した法=理想法を探求する役割を持たせようとする。

而して其所謂自由発見に依る理想法の何たることに付ても議論少からす唯従来の自然法論者が唱へたる如き人性に基ける絶対法を指すには非すして変化極りなき社会生活に適応することを主張とし時と処とに依りて其原則を異にすることあるものと為す点は殆と一致する所なる如しp62

蓋其所謂理想法なるものは名称の如何を問はす畢竟各自の脳裡に映する主観的理想に外ならす斯の如き理想法は客観的には或は之あらんも実際問題としては裁判官其人に依りて所見を異にし其結果裁判一途に出てすして公平を欠き人民一般に適従する所を知るに由るなかるへしp64

裁判官が持ち出す「条理」など、裁判官の主観でしかない、とばっさり。
⇒法律の各条文を解釈するだけでなく、統一体としてみることで柔軟な解釈を行う「論理解釈」に依るべきことを主張。法源はあくまで法典にあり、「裁判官は其裁判に依りて法律の補充的作用を為すに過きす」p71「此補充的標準〔やむを得ず行われた裁判官の自由裁量〕は固より一般の準則に非すして単に各個の場合に於て訴訟当事者を覊束するに過きす」p73



・座談会「第一次大戦後における日本社会の変化と法の展開」『講座日本近代法発達史』勁草書房、1958年。
大正期の画期的な判例(大学湯事件や武田信玄笠掛けの松事件)と自由法論の関係について、福島正夫

学者の理論がすでにあって、これにみちびかれて裁判所が進んだというのでは、どうもないらしい。……一般には裁判所が、むしろ学者の学説に対して先行したという感があるのではないでしょうか。学者が判例の後からついてくる。p56-57

平野義太郎

しかし、実際上裁判官が、横田秀雄さんのような人が判決をしていくことを、学者の方で理論的、学問的に裏づけをしていった場合には、それで納得する人も非常にふえてきたことも事実です。……当時の空気をいうと、われわれが判例研究会を始めたのは、大正一〇年ですが、法理研究会で、裁判所の中西用徳さんをはじめ大審院判事のああいう人々と接触してみると、われわれ判例研究会の仕事にも非常に賛成するんです。……結局は判決録の作り方が、あのころは事実をさっぱり書いていないし、要旨なんかは、とんでもない要旨をそこへ持ってくるようなあのやり方はよくない、ちゃんと事実から最後の結論まで内面的な論理を導き出したのが要旨でなければならぬ。書記なんかに作らせた要旨を、判事が一生懸命改めるようになってきた。ついに判決録をやめて判例集にするなど裁判所が判例集の改革にのり出す。57p

・座談会「日本法学の回顧と展望」『日本の法学』日本評論社、1950年。
牧野英一

わが国では、判例を取り扱うということは、雑然判例を並べるということであった。明治時代には、法律論に判例を引用することは、学者のいわば潔しとしないところでもあった。この頃〔大正〕になって学風が大いに変ってきたのである。68-69p

末弘厳太郎

私は先程も申しましたようにアメリカで初めて判例研究の必要を感じ、英米のような判例法国でなくとも、判例研究によらずして一国の現行法を知ることはできないのではないかという感を深くしてフランスに渡ったのです。69p

・「序」『判例民法 大正十年度』有斐閣、1923年。
執筆者は末弘厳太郎と推定されている。判例法源性を承認する立場から、判例研究の役割を法的安定性の確保に求める。

裁判所は法を『創造』する。併し其方法及び因つて出来る所の法は、立法府が法令を制定する場合と異なつて、きわめてkasuistischな具体事実と離れない微妙なものである。……それならば、これこれ斯く斯くの具体的事実に付いてしかじかの判決が与へられたと云ふことが一般人に依つて容易に認識され得るやうに出来なければ、判決の法律創造者としての天分は充分に発揮されたと謂ふを得ない。然るに現在の大審院判決には原則として事実の記載がない。p5

判例民法』の本文は、判決中の「事実関係の収集」、「判決内容」、「評釈」によって構成される。

評釈を加へる趣旨は従来諸学者に依つて試みられた判例批評とは全く異なつたものである。主として其判決と従来の判例との連絡を尋ねて当該の問題に関する具体的法律の変遷及び其内容が漸次に充実して来る様子を説明するに在る。p7

牧野英一的な「法律進化論」の影響を見ることができるだろう。
・「序」『判例民法 大正十一年度』有斐閣1924年
大審院判決録」の廃刊と「大審院判決集」の創刊について。
「かれ等は確かに判例を作るのだと云ふ特別な意識を持って居る」p2が、それは正当なのか。

吾々は昨年、判決には「法律創造力」があると云つた。今もさう考へて居る。所が、此の言葉は大審院諸公に依つて見事に誤解されたやうに思はれる。吾々が判決に「法律創造力」があると云ふ意味は決して「裁判所が法律を作る」と云ふ意味ではない。単に「判決に因つて法律が出来る」と云ふ意味に過ぎない。p3

裁判官と云ふ人間が具体的の事件に面して形式的の論理や理屈を超越して無意識的に複雑な動きを示す。其の動き具合の内に自ら一定の法則を見出すことに依つて真の具体的に充実した法的安全Rechtssicherheitに到達せむとするのが判例研究の要点である。p5

表面的な観察を事とする学者は動ともすれば、裁判判例の動揺し易く且つ統一なきを非難するけれども、それは具体的事件の微妙な複雑性を無視して法律解釈の単一性を夢想するが為に起る誤解に過ぎない。裁判官も吾々と同じ人間である。p6

無限の複雑性を有することを予定せねばならぬ具体的事件を、有限なる「判例」の形式的羅列記憶のみに依つて判断することは不可能である。吾々は有限なる事例の中に含まれた「複雑」の中から普遍的な「統一」と「理論」と「原則」とを求めようと云ふのである。茲に於てか真の法律解釈学の興味と困難が生まれるのである。p7


判例法律学・牧野】
まず、初期の論文において「自由意思」と「科学」の関係が問題にされている点に注目しておく必要がある。しかし一般に考えられるように「犯罪者の自由意思」が問題にされるのではなく、一貫して「法学者による解釈」が問題されているという点が重要。
・牧野英一「社会主義と法律」『法学協会雑誌』21巻1号、1903年

余は先つ次の疑問より入らん、曰、人の意思は自由なりや否や、余は法律の本質を論するに方り、先つこの問題に接着するの必要ありと信ず。……必至論を認めさるに於て科学の成立し得へからさるの理は固より明なり。されと必至論のみを以て、なほよく科学は成立するを得へしやp70-71

必至論⇒法の未来はすべて決まっていて、法学者にできることはない。
自由意思論・理想主義(=社会主義)⇒科学が成り立たない。

科学の基本として余か、この両輪の調和を試むるの結果は「法の解釈論」として、これを闡明せんと欲す。p72

法解釈を通した「主観」と「客観」の調和の達成、という、以後の基本的スタンスが宣言される。

学者いへりけるは法律の目的は平和にして争闘はその手段なりと、社会主義もまたその目的を平和に置きて今やその争闘をなすに手段を撰ふ所なからんとす。社会と社会主義、之を再言すれは法律と社会主義は同一の目的に向つて反対の方向より進みつつあり主観と客観はその争いを止めすといへとも而も同一実在に対する二側面ならさらんやp75-76

・牧野英一「法律学の主観的新思潮」『法学教会雑誌』21巻9号、1903年

法律の理想を定むるに関しては個人本位論と社会本位論とあり。理想を客観的に証明する方法に関しては自由論と必至論とあり。
社会と個人とを合一せしむること或はこれ理想の極致なる可し、斯の如くしてサレイユ氏は個人正義と社会正義との調和なる語を使用せり。されど個人と社会とが全く調和したる事迹を歴史中に発見し得可からずとせば、所謂責任の理論、還元すれば社会の或者は他の者のために犠牲に供せらるるの根本の理論は果して如何に解決す可きか。
自由と必至とを矛盾したる思想にあらずと見ること或はこれ論議の終局なる可し、余輩曾て此両者を主観と客観との区別なりとなせり。されど主観と客観との常に争闘を免れざるものにして社会活動は一に之に原由すとする時は、比較法学の資料によりて理想を証明せんとする学者の提案は未だ必しも盡したるものといふを得ず、何となれば既に斯くありとの事実は必しも斯くあらざる可からずとの結論を生ずるものにあらざるなり。……遮莫、哲学と科学とは近時著しき接著を見たりp1293-1294

題して『法律学の主観的新思潮』と称すと雖も、此の思潮は決して客観的研究を度外視するものにあらず、一般科学と純正哲学とが漸次融和せんとしつつあるの時に方り法律学もまたその大勢に従はんとするなり。只一般の大勢が今なほ方法論に出でざる如く法律学に於ける論議もまた此境域に止まるものの如くしかりと雖も、思ふに此方面に関する今後の研究は期して竢つ可きものある可きなり。p1295

・牧野英一『法律の発達における判例の職能』有斐閣、1930年。

法律が単に概念的形式的に考へられる間は、法律は、いはば数学のやうなものともいひ得よう。そこには価値といふことが考へられ得ない。……しかし、法律に進化を認め、その進化が社会生活一般と如何なる交渉を持つかを考へてゆくことになると、おのづから、法律の価値、すなはちその文化的意義が理解せられるやうになるのである。ここに、歴史的方法と称せらるものの意義が成立するのである。p2

われわれの立場は、進化といふ観念をもつて事実と規範とを綜合しようといふのである。平面的には相背馳するこの二つのものが、立体的には綜合せしめらるべき性質のものであること、さうして、進化といふ観念が、まさにこの綜合の契機であるといふことが、われわれの自由法論的立場である。p4

⇒「進化」は事実の連なりから帰納的に導き出されるのではなく、むしろ事実に意味を与える超越的な位置にある。「さうして、わたくしは、判例に因る法律のかくの如き発達の間において法律の社会化なる現象を見受けねばならぬ」p4

断片的な孤立的な判決を綜合するときに、そこに系統ある或ものを看取し得ることが、判例の特に重きをなす点である。若し、判例が単に先例を追ふことに因つてのみ成立するものであるならば、判例には必しも重きをおく必要がない。判例が、しかく先例に従ふの意識なきところに成立する点に、われわれとしては特に注意をせねばならぬものがあるのである。判例がかく無意識に成立することは、事実として先づ疑いないことである。p18

従来の判例解釈(たとえば「梅志林」)との距離を強調。

さて、純正に論理的には、かやうな『事実』を、当然に『価値』と解する必然性はないわけであるが、若し、かやうな事実を度外視し、それと性質上調和し得べからざる一定の見解を価値判断として押し立ててゆかうとしても、そのやうな理想は、畢竟、実現力のないものであるといはねばならぬ。……茲において、判例を批判するといふことが、単に判例の当否を伝統的な学説から品定めするといふことではなくして、その批判は、延しいて学説の構成に新しく影響を及ぼす性質のものでなければならぬのである。p18

わが邦において、判例の批評といふことに特に力を致されたのは、疑いもなく、梅〔謙次郎〕博士であつた。博士はそれを継続的の仕事として法学志林の上で、それを発表してゐられた。これは明治三〇年代の後半期から、その歿せられた明治四〇年代のはじめまでのことである。しかし、梅博士の仕事は、判例をそれ自体として綜合的に研究するといふのではなく、個別的な判例について、学説の上から、その当否を論ずるといふのであつた。されば、その態度は、今日から見れば、既に過去のものであるといはねばならぬ。p22

法学志林の判例批評を梅から受け継いだのが牧野。


陪審制について】
三谷太一郎『政治制度としての陪審制』東京大学出版会、2001年。
陪審制の成立過程
原内閣の成立:1918年9月⇒陪審法の立法化を閣議決定:1919年5月⇒全9回の起草委員会を経て司法省案が決定:1920年⇒枢密院での審議:1921〜(原敬死後の22年に承認)⇒議会の通過:1923年⇒施行:1928年(43年に停止)

それは「司法権の独立」のイデオロギーによって守られた一個の反政党的な政治勢力として明治末年に台頭した検察主導の司法部を、政党制に結び付ける制度的紐帯として意図されたものでもあった。したがって日本における陪審制の成立過程は、戦前日本の政党制の成立過程の重要な局面であったというのが、私の見解である。p7

背景:(1)司法部の人権侵害に対する批判。ことに明治40年代以降、議員や官僚が司法部の標的に。ex.)シーメンス事件、京都豚箱事件(1918年)
(2)司法への人民参加論。吉野作造陪審制度採用の議」『中央公論』1919年9月号。「すなわち吉野は、司法への人民参加としての陪審の意味を、単に政治的なものに止めず、法と道徳との間を架橋する倫理的なものに求めているのである」p138
・刑法学者のあいだでの賛否
江木衷:賛成。新刑法に対する批判的立場から、裁判官の権限を制限するための陪審制を主張。
牧野:反対。彼の科学主義のためp128 
大場茂馬:反対。日本の教育水準、宗教的風土から、陪審員に適当な人材が得られないため。
梅謙次郎:反対。陪審制を主張する人々の動機(最近の裁判結果が気に入らない人々の陰謀)を問題に。
⇒刑法学者の間では反対論が多数。賛成論は弁護士の多数および衆議院議員に限られていた。


陪審制について・牧野英一】
牧野は立憲政治と社会法学は矛盾しないという。

蓋し立憲政治とは従来政治に関し受動的地位に在りし国民が、自ら能動的に政治に参与するに至りし事情を指すものにして、裁判も亦広義の政治の一部として国民自ら之に参与することを得るなり。
(「罪刑法定主義に就て」『日本社会学院年報』第4・5号、1912年、524頁)

その方法にはふたつあり、1.法律が議会によって作られること。2.裁判がその判決理由を明示することで国民は批評しやすくなること
陪審制は?⇒「陪審制度が果して成功すべきや否やは予輩の疑ふ所なり」(p525)
ここでは理由として裁判の「科学」化が挙げられているが(つまり素人には手に負えない)、このことと、牧野が常日頃主張する「法律の社会化」「社会との調和」はどのような関係にあるのだろう。
・「陪審問題と社会の進化」1910年『増訂版 刑事学の新思潮と新刑法』警眼社、1911年。

元来、刑法が普通人の判断を基礎とすることより〔イタリア学派が主張するように〕科学的の判断を標準とすることに移ると云ふのが近世の趨勢であると思ふのでありまするが……その影響を受けて陪審と云ふ制度が更に科学的の或制度に代ると云ふことが今日の趨勢であると思はれるのでありますp332-333

今茲に一歩を譲って陪審員は社会の縮図だると仮定して見ても、陪審の見る所、即ち社会の見る所は、単に社会の見る所であると云ふだけで真理であると云ふことが言はれるかどうか……私は法を以て民心を迎合すべきものとは信じないので、法は宜しく社会の民心を指導すべきものでなければならぬと思ふのであります。p358-359

・「調停及び陪審」1923年『法律に於ける具体的妥当性』有斐閣、1925年。
フランスにおいて陪審制および検事が、法と社会通念の調和を図っていると好意的に紹介。

若し、其の古い法律の下に、一派の学者〔概念法学〕が要求するやうな法律の運用をして居たならば、社会には革命が免れなかつたであらうと考へねばならぬのではあるまいか。p113

日本においては大審院判例が「信義誠実の原則」「条理の命ずるところ」「事物の性質の要求するところ」など「一種の法律的理想」が法の解釈を左右しうることを示したと評価。「さうして、社会の全体は、大審院がかくの如き判決を下したことを以て司法権の濫用だとは認めて居ないと思ふ」p123
では、「信義誠実の原則」などを判決理由に持ち出すことは、何によって正当化されるのか。

わたくしは、大審院が、婚姻の予約を論ずるに方り……専ら『普通の事例』を基礎とし、『社会の通念』に訴へ、『社会観念』の認むるところに依つて、正義公平の命ずるところ、公の秩序善良の風俗の求むるところを求め、之に従つて事態を解決し、之を以て『法律の精神』に外ならずとした点に各滅の興味を感ぜざるを得ないのである。p132

法律の本質を理解するのに、之を主権者の命令だとする見方と、之を国民精神の発現だとする見方とある。さて、従来の判例は、法律を基礎として、之に依つて実生活を律せんとしたのに対し、此の判例は、実生活の求むるところをやがて法律そのものに外ならずとしたのである。わたくしは、ここで、法律の本質に関する二つの見方の間に是非当否を評論しようとは思はないが、少くとも、法律を本位とする見解が行きつまつたところに、今や実生活を起点とした見解が新たに明らかにされ、之に依つて、法律生活の進化が更に一歩を進めることを得るに至つたことを面白いと考へるのである。p132-133

⇒借地借家調停法(1922年制定)に対する肯定的評価。
しかし、「社会通念」すべてを肯定するわけではない。

〔紛争を調停に委ねる方針は〕社会の通念を根拠として居る。しかし、それは、普通の素朴的な、思慮のあまりめぐらされて居ない一般の考へに依るのではない。況や一時の刺激に興奮した感情的な世論を指すのではない。之を法律の用語を以てすれば『善良なる管理者の注意』を以て熟慮され、『公の秩序善良の風俗』に適合するものとして論定せられるものでなければならない。p161-162

さらに陪審法(1923年制定)

陪審制に付き、わが邦で特に憂慮されたのは、党争の弊が司法に及ばんことである。しかも、陪審員選任の斯くの如き方法〔抽選〕に於ては、党争の弊が果して陪審に及ばざるをことを保証し得るであらうか。わが邦に於て特にしかく党争の弊として考へられて居るところを更に広く学者の語を借りて謂わば、陪審の弊は、兎角感情に動かされ易いといふことにならう。又他の観察点からは階級闘争の弊といふことにもならう。p177-178

社会通念を裁判に取り込みたいが、階級闘争の余弊は避けたい。
犯罪と社会の関係を解釈する権利を法律学者が独占しなければならない(科学主義)。しかしその解釈が「常識」からかけ離れてしまうと、法は規範として成り立たなくなってしまう。そこで用いられる戦略が、法と常識の一致を強調しながら、それを可能にする(その具体的内容は明らかにされない)根拠として科学を措く、というものである。

犯罪の捜査にしても、犯人の人格的審査にしても、刑罰の実際的効果にしても、皆単純な素朴的な常識、殊に又法律家らしい形式的な考へ方を以て論じ得べきものではない。此の意味に於て従来の陪審主義は最早時代錯誤である。……しかし、それが為に、わたくしは、常識主義が全く度外視されようとはおもはない。そは、今日の科学はわれわれの常識を排除し得るほどに十分発達したものではないからである。しかし又、科学主義と相並んで刑事事項を適当に処置すべき常識は、単純な素朴的な常識であつてはならない。科学主義と相依り、相助け、相調和するところの『訓練された常識』でなければならない。


【厳罰主義か教育刑主義か】
新派刑法学の第1世代(富井政章・古賀廉造)において、厳罰主義が顕著であることは否定できない(『刑法理論史の総合的研究』)。それと対比したとき、第2世代(牧野英一・宮本英脩)が教育刑に傾いていることも。この違いはどこから生まれてくるのだろうか?
(ただし、その点をあまり強調するべきでもない。富井や古賀においても、刑罰の目的が「治療」であることは否定しないからだ。)

蓋刑法の作用は恰も患者に施用する医師の療法と異ならす即ち其患者は社会にして病は犯罪なり……悛悔復善は根治治療にして懲罰は姑息療法に過きす
富井政章『刑法論綱』1880年(信山社、1999年、17頁)

なぜ牧野らは教育刑にこだわったのか。
行刑理論からの影響、というのが一般的理解(芹沢一也)。
しかし「社会秩序」の捉え方の違いが重要なのではないか。社会秩序の捉え方の違いが、その中で生きる個体の把握にも影響を与えている、とは考えられないか。
・横田秀雄「刑事裁判と国民の信頼」『法学論集 第一編』清水書店、1920.
裁判が国民の信頼を得るためには、「誤判の予防」「量刑の適正さとその説得性」「訴訟手続きの公正さ」「人格的に卓越した裁判官」が必要である。特に最後の点について

従来に於ける裁判官の選任は近来訴訟事件か極て複雑になり之を裁くに手腕を要するといふ事よりして裁判官の技術の方面にのみ重きを措き其人格徳望の如きは之を顧みることの出来ないやうになつて居るのは私の甚た遺憾とする所てありますp335
刑事裁判官は法律学の素養あるのみを以て足れりとせす其研究を以て畢生の事業とすへく其学殖は大学教授と伯仲の間に在るを以て理想とする併し刑事裁判官に最尚ふへき資格は其豊富なる常識と経験てあるp346

具体的には「寛宏なる度量と被告人に対する同情心」p341。これが欠けていたとして、厳罰主義に傾きがちであった古賀廉造を痛烈に皮肉る(このときの古賀は阿片事件の渦中)

古賀博士は刑事の被告人となつて遂に免訴の言い渡しを受けた……古賀博士は嘗て検事として峻烈なる論告を為されたもおてある併し此度第一番第二番の法廷に立たれた時の感想は如何てあつたか私は古賀博士に聴きたいのてあるp342

・執行猶予制に対する穂積八束の反対(長尾龍一「八束の髄から明治史覗く」長尾龍一編『穂積八束集』信山社、2001年)
明治34年第16通常議会にて、刑法改正案を審議。八束は執行猶予制に反対する演説を行う。

「刑は犯人をして十分之を恐れしむる」べきであるのに、刑法案は寛刑に過ぎる。特に執行猶予制度は西洋諸国でも賛否両論あり、実験的段階にあって、これを本格的に導入するのは尚早である。必要ならば天皇の恩赦権を利用すればよく、裁判官がそれに先立って刑を免除するのは、「大権の自由なる発動を妨げ」「恐多い」という。これに対して清浦奎吾法相は、刑務所に入れない方がよい結果をもたらす犯罪者も多く、執行猶予制度は欧米でも導入して好結果を博している、と答弁した。(p372-373)

八束は執行猶予権が天皇の恩赦権を犯すものであるとする論説を、『法学新報』13巻1号(1903年)に掲載。これに対し美濃部達吉は次の号に論文を寄せ反論。
論点:天皇大権に属する恩赦を、法律を以て裁判所に行わせるのは可能であるか
八束:できない。
美濃部:できる。「法律は如何なる事項と雖も規定し得さるものなしとするは、欧州の立憲制に共通なる思想なり」p383


【大正期の法学に生じた変化・概論】
伊藤孝夫『大正デモクラシー期の法と社会』京都大学学術出版会、2000年。

1925(大正14)年、「大正デモクラシー」論壇の一翼を担う総合雑誌『改造』の12月号には、東大法学部教授鳩山秀夫の法曹界への転身の報道に対する二つの短評が掲載されている。論者は片山哲と赤松克磨である。
片山はいう、鳩山博士の転身は「法学界の気運が、遂に彼をして方面転換を余儀なくせしめた」ものである、すなわち、かつて博士が颯爽と登場したのは「独逸法学が全盛を極め、概念法学の将に最高潮に達せんとするの時期」であったが、時代思潮は今や「概念法学の凋落」をもたらしつつある、と。赤松はいう、概念法学は一種の技術である、この意味において博士は「我国法学界空前のそしてまた絶後の法律技師」かもしれない。しかし「概念法学には哲学がない、社会科学がない」、今や概念法学を帝座から引きずりおろしつつあるのは、「法律の社会化であり、民衆化」である「自由法学乃至社会法学」の新気運である、と。そして片山と赤松がその「新思潮」の代表者としてそろって挙げたのは、牧野英一、穂積重遠、末弘厳太郎の三人であった。p12

⇒実際の裁判を見る限り過大評価である。しかしそれは「我妻栄をして「立っている足許の崩れるような不安と焦燥」を覚えさせるに十分なものであった」p12
・中央法律相談所について
1918年に「簡易法律相談所」としてスタート。吉野門下の片山哲星島二郎らによって運営。1920年に改称。「片山は後年の回想で、中央法律相談所に持ち込まれた相談内容のうち目立ったものとして、借地借家問題、家庭問題、労働問題、小作問題の四つを挙げている」p52
堅苦しい法律論や没趣味な判例で固めた法律の専門雑誌の外に、今少しく余裕のある、そして生きた社会ともった緊切な接触を保つことの出来る、暖か味のある法律新聞」をめざし、1921年には『中央法律新報』が創刊される。「この趣旨に賛同し協力を約束してくれたのが、まず牧野英一であり」p54
・労働運動への接近

大々的な言論活動の一方で、例えば22年1月22日には、全日本鉱夫総連合会足尾支部で、労働者300余名を前にして、片山〔哲〕、三輪〔寿壮〕、松下〔芳男〕の三名が講演会を開いている。終会後、彼等は次のような感想を書き付けている。従来労働者たちは「威勢のいい大向のうける様な演説」ばかり好む傾向があったが、今や法律の講演会等という地味なものにも耳を傾け、深い注意を払ってくれる様になった事は、確かに労働運動の一向上である、「理想は理想としても、私共の全生活は法律に束縛されているのは事実なの」だから、と……東大新人会出身者に代表される若い世代の弁護士たちは、法知識という武器を労働者に手渡す役割を果たし、弁護士たちの活動は社会運動の諸潮流と合流したのである。p55-56

・「法律の社会化」
「この言葉の普及に最も力があったのが牧野英一と「中央法律新報」であったが」p83
牧野「法律の社会化」論を整理すると、
(1)個人本位から社会本位へ
(2)その発現形態として、社会政策立法(ワイマール・モデル)と権利濫用・信義誠実の原則・無過失責任論などによる新しい法解釈
(3)その方向性として、所有権の不可侵性と契約の自由の制限
⇒末弘厳太郎、孫田秀春などがこの延長線上にとらえられる。

しかしこうした学問的理解とは別に、法学「改造運動」の漠然たる標語としての「法律の社会化」が担った意味も、この時代の法学を考える上で無視し得ない内容をもっている。例えば、やはり「中央法律新報」創刊号で片山哲が論じている「法律の社会化」の具体的内実は「法律事務の簡易化」である。すなわち、「社会化」を「民衆化」と同義とし、「法律事務の民衆化、簡易化」、あるいは法律文の口語化・平易化等を通じ、日本の法律・裁判制度の全体が「民衆本位」になることを熱望する、と。……また既述のように1921年5月24日には、中央法律新報主催の「法律の社会化講演会」が開催された。同日の講演で、吉野作造は「国民の法律とかけ離れて」いる法律を「常識化」せよ、と論じ、末弘厳太郎は、法律をいかに「人間味」あるものにし得るかを、裁判・立法・法学教育の三点において論じている(中央法律新報社編『新興文化と法律』)。……いずれにせよこれらの場合、「社会化」とは、裁判・法・法知識を専門家の独占から社会一般に開放せよ、とする啓蒙運動としての意味を負わされている。

しかし、こうした「法律の社会化」が個人の自律につながるかは不透明。
ex.)末弘における調停制度への評価の変化
1922年段階で、末弘はこれを肯定的に評価。その判断の基礎には「紛争当事者としての小作人・小作組合の、当時における主体的力量への疑念があったように思われる」p91。牧野英一が調停法に与えた評価と似ている。
⇒24年には認識が転換。小作問題のような「階級闘争」を立法によって解決するのはむしろ「国家の万能を信じ法律の力を過信」するものではないか。
末弘について、平井宣雄は以下のように述べている(『法律学基礎論の研究』有斐閣、2010年、270頁)。

「末弘方法論」は「社会の国家からの解放・社会の自主的発展」を目的とする末弘法学の基本思想につながっている。それが、国家法に対抗するものとしての社会規範の発見と強調という法源理論を生み出し、その重要な一環としての裁判官による法創造の承認と判例法源性の主張とが導き出されてくるのである。


【大正デモクラットとの関係】
・大正期における多元主義理論について
中野実『現代国家と集団の理論』早稲田大学出版部、1984年。

大山郁夫、長谷川如是閑、高橋清吾、大石兵太郎らに代表される戦前期わが国の政治的プルラリストの諸理論は、一般的にいえば、理論―実践の両面にわたって明治立憲国家体制を強力に支えていたモニスティックな国家主義との鋭い対抗の中で、オーストリア学派の国家起源論を援用して国家の神秘性を剥奪奪しつつ、天皇制国家の正当性に対するアンチテーゼを提示し、他方では「政治の社会的基礎」を明らかにすることによって、「国家政治」から多元主義的な「社会政治」への視座の転換とわが国政治学の「科学科」に貢献したとみなすことができよう。

杉森孝次郎について、国家再編のための社会概念
大木2003

「社会の発見」(『国家の明日と新政治原則』1923年)で杉森は、第一次世界大戦を契機として顕著になった「社会の発見」について論及し、また、コールやホブソンらのギルド社会主義における多元的社会学説の影響などから、国家を職能団体の一種として捉え、国家と「社会」を区別する見解を明確に有していた。しかし、同時に杉森は、多元的社会学説を現実の社会形態に適用する理論としては必ずしも全面的に承認していなかった。……杉森の多元論は、社会と国家を概念的に明らかに区別しつつも、……各個人と各単能組合のすべてを綜合組合たる国家が包摂する構造形態をとっていた。それは、杉森の多元論摂取の主たる問題意識が、あくまで第一次世界大戦後の日本における国内外の新たな情況に対応しうる「国民」と「国家」の形成に向けられていたことに由来していたのである。……個人の人格的個性とそれを構成主体とする複合的、多元的な社会関係を積極的に容認し、「国家の進歩の源泉」をもっぱら「個人の創始力」に求めることにより、国家に対する個人の主体的参画によって構成される新たな国民的統合の実現可能性を模索していたのであった。そして、それは、国家間における国際協調に資することにもなるだろうと、杉森は展望していたのである。p122

社会の多元性を承認する一方、国家はそれを統御するものとして一元的。それとは対照的に、社会の多元性をそのまま国家へと反映させたのが長谷川如是閑、と言えるだろうか。
大木2003

『現代国家批判』(1921年)で如是閑は、個人の現実生活の立場から乖離した観念的な「現国家」に対し、個人の現実生活に直接の関係を有する労働組合ないし職能組合をもって国家の代替制度と位置づけたサンディカリズムやギルド社会主義は「社会的には道理がある」と主張した。とくに、観念的な「現国家」と個人の現実生活との「交渉」の困難性を克服する社会思想としてギルド社会主義に着目し、労働組合を主体とする生産自治を要求すると同時に、社会における消費を含めた政治活動を担う国家の制度的意義を認め、労働組合と国家との並列的関係を承認している点において、ギルド社会主義を積極的に評価したのであった。p118

・参考:フランス19世紀におけるジャコバン主義について
田中拓道「ジャコバン主義と市民社会

ロザンヴァロンの19世紀像の特徴は、フランス革命期に成立する「ジャコバン主義」的政治認識が、繰り返し批判に晒されながらも、修正され回帰すると捉えることである。
……フランスの特徴は、ヘーゲルの思想に見られるような、特殊なものと一般的なものとの弁証法が想定されず、両者の間の断絶が強調されることである。個別利益を抽象化する「代表」という機制が重視され、代表する者とされる者の間には「特殊利益」からの「一般利益の創出」という飛躍が想定される。
……〔フランス革命直後にジャコバン主義は批判に晒される〕しかしロザンヴァロンによれば、これらの批判にもかかわらず、ジャコバン主義は7月王政期に再生する。ギゾー、ティエールなどの自由主義者は「政治的」領域と「社会的」領域の区別を導入する。……ジャコバン主義と同様、国家権力の拡大と自由の実現は相補的に捉えられる。
……第三共和政期にジャコバン主義の刷新が完遂する。ここでロザンヴァロンが重視するのは、有機体的秩序像を批判し、中間集団債権を唱えた社会学者の思想ではなく、「政治的」領域と「社会的」領域との「分極化」によって特徴づけられる共和派政治家の秩序像である。後者は……社会的・政治的結社の秩序維持への有用性を承認する。その一方で、政治的には議会を通じた意思集約と一般利益の一元的「代表」という見方を保持する。p113
……この時期の社会学者が唱えた職能代表論や、サンディカリストの唱えた生産者の共和国ロン、コルポラティスム論は、いわば「社会的なもの」によって「政治的なもの」を再定義する試みであった。一方共和派政治家の秩序像によれば、「社会的」多元性は「政治的」集権性と明瞭に区別され、その統制の下で許容されるにすぎない。後者こそが二十世紀のフランス政治モデルを提供することになった、という。p114


【新刑法に対する認識】
旧刑法の施行と旧刑法への批判(=新派の主張)がほとんど並行していたこと
古賀廉造『刑法新論』東華堂本店、1898年

当時若し日本人中に刑法学者ありて外国法律と日本法律とを参酌し能く日本に適当する所の法律を制定する者ありしならは日本の犯罪は此十五年間に於て今日よりも好く之を退治するを得たりしなるへしp5

罪刑法定主義について
牧野英一を激しく批判した瀧川幸辰においても、新刑法の施行によって罪刑法定主義の規定が条文から削除され、刑法の規定が簡単になり裁判官の裁量余地が拡大されたことは、「これは実質的には罪刑法定主義の撤廃に外ならない」と評価された。
瀧川幸辰『刑法読本』1932年(『瀧川幸辰刑法著作集』第1巻、世界思想社、1981年、39頁)
むろん、瀧川はそうした状況に危惧を抱いているわけだが。


【参考】

ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』1975-1976年(石田英敬小野正嗣訳、筑摩書房、2007年)

法理論には結局、個人と社会しかありません。つまり契約を結ぶ個人と、諸個人間の自発的あるいは暗黙の契約によって構成された社会体だけです。規律のほうは、実践的に個人と社会にかかわっていました。ところが、この権力の新しいテクノロジーが関与しているのは、必ずしも社会(あるいは法学者たちが定義しているような社会体)ではありませんし、もはや個人―身体でもありません。それは新しい身体なのです。……それが「人口」の概念なのです。p244-245

他方、規律と調整という二つのメカニズムの総体は、同じレヴェルにはありません。それゆえに両者は排除し合うことなく、たがいに連動することができるのです。多くの場合、権力の〔個体を対象とした〕規律的メカニズムと権力の〔集合的現象を対象とした〕調整的メカニズム、身体への規律的メカニズムと人口への調整的メカニズムは、たがいに連動しているとさえ言うことさえできます。p249

本田稔「歴史と刑法学」『立命館法学』325号

中野〔敏雄〕の大塚久雄批判を手がかりに、日本刑法史の課題を設定するならば、次のようになろう。すなわち、帝国主義的な侵略戦争の時代において、総力戦を展開する高度国防国家体制へと国民を動員するために主張された刑法理論とはどのようなもので3あったのか。そして、戦後の自由主義の下で、個人の自由と自律性の実現に向けて再構築された刑法理論は、それとどのような関係にあるのか。それは、アジア諸国に対する侵略と略奪に向き合ってきたのか。絶対主義的天皇制の支配に協力した日本法理運動が対外的な侵略戦争と国内的な思想弾圧のために刑法学説を動員したことは今日知られているが、それに責任のすべてを押しつけることはできない。なぜならば、問われているのは「近代という時代そのもののひとつの帰結」としての「刑法」だからである。