『涼宮ハルヒの消失』についての雑感

近所の映画館で観てきました。観ようかどうか迷ってる……という人は観にいきましょう。座席数が少なかったりスクリーンが小さかったり観客のマナーが悪かったりしましたが、それでもなお、2時間40分を短いと思えるくらい濃厚な時間をすごすことができました。京アニの良いところが全て出ていて、しかもちゃんとした映画になっている。最近は長いテレビアニメのような劇場用作品が多いので、余計にそう感じました。あまり疲れを感じないのは、カットの繋ぎ方がやわらかいからでしょう。
SOS団のメンバーが揃う後半以降も面白いのですが、特に前半が良かったと思います。一番良かった場面は、キョンが色々な人にハルヒのことを尋ねて回るシーン。原作でも、独白やくり返し表現が多用され、見知らぬ世界に放り込まれたキョンの不安がひしひしと伝わってくる、非常に印象深い場面でした。

もつれがちの足を叱咤激励し、俺は這うように廊下へ進み出た。
まっさきに思い出したのは長門の顔だ。あいつなら事情を説明してくれる。寡黙な万能の宇宙人アンドロイドである、あの長門有希ならば。いつでもあいつは全てを解決してくれた。長門のおかげで俺は生きていると言っても過言ではない。
長門なら。

この場面が、映画ではまるで平衡感覚を喪失してしまったかのように傾斜アングルを多用し、緊張感を延々と高めていきます。キョンの騒々しいモノローグと小刻みなカット割によって生み出される音楽的なリズム、そして人を不安にさせるレイアウトによってテンションが高められ、そして維持されるのですが、それが中々解放されない。原作を読んだ時よりもさらに、キョンの焦燥感に感情移入してしまいました。正直に言えば、ちょっと気持ち悪くなるくらいに。
また、おそらく『消失』に限らずこのシリーズは、主観と客観を無理やり同居させた独特の映像文法によって特徴付けられるわけですが、それらをぎりぎり繋ぎとめている音声・音響の丁寧な仕事と同様に、この矛盾をはらんだ映像文法をそのままドラマの主題に繋びつける物語構成もまた注目に値すると思われます。
どういうことか。原作のキョンは典型的な「信用のできない語り手」で、俗な言い方をすれば「ツンデレ」なのですが、ざっと読んだだけではイマイチわかりづらい。それに対し、ロングショット主体のレイアウトによってキョン自身を客体化し、モノローグと行動の乖離を強調し、キョンを魅力的な主人公に育てたのはテレビアニメ版の功績と言ってよいでしょう。それが意図的なものなのか、それともキョン自身を含めた風景として日常を描こうとする映像文法が自然に意識と行動を切り離していったのかはともかく、今回の『消失』はそれを主題化したわけです。僕としては、終盤のあからさまな告白よりも、中盤にぽろっとこぼれた「朝比奈さんのお茶が飲みたい」という台詞が印象的でした。
『消失』のもうひとりの主人公である長門有希が、素晴らしく魅力的だったことは言うまでもなく。ええ可愛かったですとも。文芸部の入部届けも、大切なことを思いついたように本で口元を隠すしぐさも、全部良かった。ハルヒとかどうでもいいんじゃないかな。
という冗談はさておき、一番魅力的に描かれていたのが長門なら、一番不遇なのも長門ですね。キョンという人間が、楽しいことを他人と分かち合える人間であっても、他者の苦しみや負の情念を引き受けられるような人間ではないのだろう、ということを『消失』を観ながらぼんやりと考えていました。長門キョンに示す露骨な好意に含まれるもののうち、キョンは半分しか受け取ろうとしない。それはシリーズものの主人公に必要な鈍感力というやつなのかもしれませんが。
以前にも書いたように、ハルヒキョンという居場所を得てますますお姫様願望を強め、キョンキョンで主人公意識を強めていく。この長い物語にオチをつけるとするならば、(ハルヒだけでなく)ふたりが地に足のついた夢を見つけるか、ハルヒの負の情念も含めてすべてを引き受ける覚悟をキョンが決めるか、になるのだろうと思います。『消失』でキョンは色々なものを引き受ける覚悟を決めたわけですが、それが楽しいもの、肯定的なものに限定されているかぎり、キョンの性格が少し素直になったという程度の話ではないかと。
あと、BGMに使われいているジムノペディは嫌いではないのですが、最近ずっと『最果てのイマ』を読んでいたのと、帰りに寄ったラーメン屋で観たテレビCMでも使われていたので、異化効果があまり……。