『ひだまりスケッチ×365』に関する雑感

ef - a tale of memories.』の総集編がkonozamaなので、とりあえず『ひだまりスケッチ×365』の話でもしてみようと思います。関西では昨日の深夜に2話まとめて放送されていたのを見たのですが、一緒に流れていた芳文社のCMだと原作はクソつまんねー漫画にしか見えないな、など色々思うところがあったので。

ひだまりスケッチ×365 Vol.1 【完全生産限定版】 [DVD]

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まんがタイムきらら』系の萌え4コマというのは大体そうなんでしょうが、芳文社のCMがやっているように1つのネタを抜き出して、短い時間で「話を追う」ことに徹すると、これほどつまんねー漫画というのも珍しいのではないかと思います。大事なのは「こういうことがあった」ではなく、「こういうことをするやつがいる」という事実。以前『らき☆すた』の話をしたときにも書きましたが、現代の「日常系」作品において特別な意味が与えられているのは「日常そのもの」ではなく、日常を生きるキャラクタたちそのものに他なりません。巻き込まれ型のストーリィを排除し、ほぼ総てのエピソードは「よく知っている誰か」が自身の趣味や嗜好に対して忠実に行動した結果として生じてきます。それを積み重ねていくことで登場人物たちの「かけがえのなさ」を描いているのだろう、と。
「日常系」作品のもうひとつの構成要素、時間性についても見ていきましょう。『ひだまりスケッチ』は原作の時点で既に、秋のエピソードの後に春が来りと、特異な時系列となっています。しかし、各話単位では現実の時間と同じような均質性、恒常性をもった直線的なクロノス的時間が流れています。対してアニメ版はどうなのかといえば、正直言って、よくわからない。
時間の均質性、恒常性に対しては過剰なカット割によって抵抗を試みているように思われます。例えば漫符の表現。漫符はアニメでも『しゅごキャラ!』などで多用されていますが、感情を表す漫符とその主体となるキャラクタは同一画面内に配置されるのが一般的です。一方『ひだまりスケッチ』および『365』ではそれらをあえて二つのカットに分けて表現している。『ひだまりスケッチ』内の基準においても平凡な出来事をあえて仰々しく書くという「手法に対する異化」がしばしば行われているため上記の技法もその文脈で捉えるべきかもしれませんが、ここは素直に「印象的な時間を引き延ばしているのだ」と理解しておきましょう。
このように時間の均質性に手を加える一方、時間の前から後ろへと直線的に流れる性質に対しては、なぜか素直に従っているようです。エピソードの語られる順番を組み替えても、それらは「回想」という形式をとることで、通常の時間の流れと同調させている。
物語を俯瞰する超越的な視点がどこに置かれているのかという問題として考えると、各話単位の時系列が組みかえられていることから、超越的な視点はそれよりも上位に置かれていると思われます。そうすると各話はその視点にとっての「回想」に相当するわけですから、各話内における回想は「回想内回想」となる。それはある種のタブーと見做されることが多いので、各話内の回想は超越的な視点によるものではなく、あくまでもキャラクタの思考の流れとして表現する必要があったのではないか、と僕は思います。また、エピソード内に超越的な視点を設定しないことで、例えば国民国家のような均質化された世界ではなく、「私たち」の親密な空間としての世界を描くことが容易となるでしょう。
アニメ版『ひだまりスケッチ』という作品の構造は、地の文と組み合わされた書簡体小説の形式に近いのかもしれません。