『しゅごキャラ!』第46話『りま降臨!?お笑いの神様!』についての雑感

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前回の記事で「もはや、りま様は神すなわちゴッドであると言っても過言ではありません」と書いたのですが、今回は本当にお笑いの神様となったりま様のお話。初登場の頃と比べるとずいぶん「便利な」キャラクタになったなぁという感じがしますが、しかし、りま様は可愛いので何の問題もありません(意味不明)。



さて、今回のモチーフは「演じること」、あるいはその前提となる「舞台」でした。まずは冒頭、家の外観を映した状況説明ショットから家の内部へと繋がれ、そこではテレビ画面のUFOとモンタージュで接続する形で、主人公のあむが扇風機に向かい「わ〜た〜し〜は〜うちゅうじんだ〜」と遊んでいる姿が描写されます。これをきっかけとして様々な形の「演じること」が描かれていくので、順を追って見ていくことにしましょう。あと、このシーンは線が細くて多くて柔らかいあむの絵柄に映える場面でしたね。

あむに続いて登場するのは、本職のお笑い芸人(にしてはプロ意識の感じられない)ヒゲ次郎。テレビの中の彼はクローズアップで映されながら持ちネタを披露し、その結果、あむにギャグとして認識されることに成功しています。

その一方、今回のゲストキャラである木崎都の公園ゲリラライブ(観客2人)を描いた場面では、都の全身を映すフルショットもしくはロングショットを多用しており、雑然とした背景の占める割合が非常に多くなっています。また、それを見たあむの反応は「呆然」というべきものであり、そもそもギャグとして認識されていない、という感じ。また、同じギャグを何度もくり返すヒゲ次郎に対しても、2回目以降はフルショットを用いながら同時に観客の姿を捉えるようになり、舞台の持つ日常からの隔絶性は失われていきます。

そこで「お笑い」を「お笑い」たらしめるものはそれが行われるべき正しい「舞台」であると考えるならば、今回の話の中で2度イメージの暴走として描かれた「夕日に向かってダッシュ」は、あらかじめ「お笑いの神様」として設定されているりま様の方が、日常から隔絶された正しい「舞台」を引き寄せたのだ、と解釈することが可能でしょう。
それと、公演のシーンでは都の「今度のゲラゲラ劇場の『いらっしゃ〜い素人さん』のオーディション受けるんや」という台詞に合わせて、図ったようにりま様、くすくす、都の三人が同じ手振りをするところが面白かったです。身体が勝手に動いてしまうりま様、ということでしょうか。


ギャグを題材にしたメタギャグの常として、作中に出てくるギャグは、キャラクタたちが面白がっているほど視聴者にとっては面白くないものですが、りま様だけは実際面白かった、と思います。


今回のテーマ的な部分に触れておきたいのですが、りま様の主役回では毎回センシティブな問題が取り上げられていて、彼女は本当に良いキャラクタだなと感じます。ひとつには彼女が非常に可愛いということがあり(これ重要)、また彼女の夢が周囲からの抑圧を受けてきたということがあります。
今回のゲストキャラ・木崎都の夢(お笑い芸人になりたい!)もまた抑圧を受けており、作中では明言されていませんが、それは彼女が日本に生まれた女性であるというジェンダーの問題と関わっています。

教室で芸を披露する彼女の周りには男子だけが集まり、後ろで女子が「都って、ちょっと変わってるよな」と噂している。男性よりも早く適応の術を諦めと共に身につけた女性が同じ女性の中の異端を抑圧し、それを回避するには「男化」するしかないという構図を、ここに見ることが出来るでしょう。
最近、はてなダイアリー「どうすりゃいいのさ女子たちは?」という大変興味深い記事がありました。それによると
「わたしは、女の子だけど野球がすきです」
でも「野球は男の子のスポーツ」という価値観が既に内面化されているので
「大きくなったら野球のマネージャーになりたい」
それでも「男の子のスポーツ」をやりたいという人は
「頑張って道を切り開いて「名誉男」認定コース」
という二者択一。まさに「どうすりゃいいのさ」という状態です。
今回の話における、主人公・日奈森あむの答えは以下の通り。

「信じなよ、自分の夢。他人に何言われたって関係ない!
都の夢は、都だけのものじゃん。馬鹿にするやつらの方がおかしい!」

本当、その通りだと思います。そういう「おかしな」社会であることが、大人として恥ずかしい。