『我が家のお稲荷さま。』に関する雑感

つい最近まで「『それは我が家のお稲荷さま』? 変態仮面のパロディかよ」と思い込んでいました。何ていうか……ごめん。

この作品は主人公が妖狐、つまりキツネなので、そちら方面の薀蓄を少し。
有名な陰陽師の安倍清明は安倍保名と彼が助けたキツネの間に生まれた子どもである、という「信太妻」の伝説はよく知られていますが、さらに古いところでは『日本霊異記』にも、美濃国に狐直(きつねのあたい)という者がいて、妻がキツネであったのでその子孫は大力であったという話が載っています。
近世以前においてキツネは良い獣とされる傾向が一般的に強かったようで、耕地を見下ろす場所に狐塚がつくられたり、稲荷神の使いとして信仰されたりといった事実はそのイメージが反映されたものであると考えられています。ただ、農家が飼っている鶏を殺してしまう「害獣」としてイメージも一方にあって、それが中国の陰陽五行説に由来する「キツネが女に化けて男を惑わす」という話(『我が家のお稲荷さま』第2話にもありましたね)と結びつき、キツネは人を化かす、人にとりつくといった伝承が生まれました。『今昔物語』ではこの両系統の話が収録されています。
ところで、同じ「人を化かす」獣であるタヌキと比較すると、列車に化けて反対側から来る列車に轢かれたとか、人間に化けて家の門を叩いていたら急に門が開いてひっくり返ったとか、そういう間の抜けた話のほとんどはタヌキの失敗談として語られており、キツネがその手の話の主役になることは極めて希であると言われています。
そういうわけで、キツネは一家に繁栄をもたらす農業神であり、また狡猾な妖怪であるというイメージは、民俗信仰としては例外的なほど全国の広い地域において共有されてきました。
しかし、こうした民俗信仰は神仏分離令廃仏毀釈を境にして変質したことは間違いありません。廃仏毀釈というと仏教だけが抑圧されたように思われがちですが、実際には「国家によって権威付けられない神仏の全て」が抑圧の対象となったわけで、記紀延喜式神名帳に記載されない鬼神や妖怪といった民俗信仰は、ある意味仏教以上に抑圧されたと言えるでしょう。抑圧というのはつまり「非理性的」というレッテルを貼ることであって、仏教はその点、教義の合理性をアピールすることで生き残ったわけですが、民俗信仰はそういうわけにもいきませんでした。『我が家のお稲荷さま』を見ていても、妖狐のクーや巫女のコウが学校に通ったり電車に乗ったり、機械を使ったりといった「近代文明」になじめない、前近代的な存在として描かれるのはそういった事情があるのではないかと思われます。
話があさっての方向に行きそうなので話題を変えますが、もっと詳しく知りたい方には安丸良夫の『神々の明治維新』をオススメしておきます。
神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

ようやくアニメの話に移ります。
この作品、あまり期待せずに見て、妙な面白さを感じました。まず第3話における鹿野優以さんの怪演。これが無性に懐かしい感じがするんですよね……。それとデフォルメ化された表情や画面に浮かぶ「?」、携帯電話が出てこないことも含めて、10年くらい前のアニメを見ているような気分になります。

たとえば『紅』あたりと比較した場合、ドラマとしてどうしようもなく「古い」と感じてしまうのですが、そこが良いのかな……。上でちらっと携帯電話の話をしましたが、携帯電話というのは個人のもっともプライベートな領域にずかずかと踏み込んでくる道具であるわけで、玄関から入って廊下を通り個室に招かれてやっと対面できるという時代とは全くコミュニケーションのあり方が異なるわけです。この作品に登場するキャラクタはみんな奥ゆかしくて、昭和のドラマかよ、みたいな感じ。その点『School Days』は新しかったなぁと常々思っているのですが、この話は別の機会にでも……。


若干新しそうな部分としては、妖狐の「クー」が文字通りの意味で性別不詳、という点が挙げられるでしょう。正確には、性別を自由に切り替えることが出来る。ジェンダー論あたりと絡めて話してみるのも面白いかな、と一瞬考えましたが、基本的には異性愛でノンケでヘテロセクシャルな世界観なのであまり意味ないかもしれません。