『CLANNAD』のリズム−映像作品の強度と鋭さ−

CLANNAD 1 (初回限定版) [DVD]

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2004年にkeyの第3作目として発表された『CLANNAD』。この作品についてはアニメ版が始まる直前にクリアしたばかりなので色々語りたいことがあるのですが、このタイミングだと何を話してもネタバレになるので自重しています。
テーマは「家族の絆」そして「街と人の絆」。keyの固定ファンが多いというのもあるのでしょうが、作品がテーマを含めて絶賛され、「CLANNADは人生」とか言い始める人が出てくるのを見ると、ギャルゲのユーザって倫理的には超が付くほど保守的だよね、と感じます。ギャルゲ(特にエロゲ)はカウンターカルチャだと誰かが言っていましたが、絶対嘘ですよ。せっかく全年齢対象なんだから、青少年は中二病が許されるうちに何でも疑っておきましょう。


そんな話はさておき、アニメ版の話に移ります。第4話まで進んだ現在でも、ある種のファンタジィではあるのですが、決してドラマチックな展開が繰り広げられているというわけではありません。淡々と伏線を張っているな、という印象。ただ、そこで「荒木飛呂彦みたいに毎回起伏のある話を作るべきだ」と言ってもおそらくは不毛な議論になるでしょうから、問題にすべきなのは、いかに「見る」ことの面白さを演出しているのか、あるいは淡々とした日常の中からどのようにして内面的なドラマを抉り出しているのか、ということであると思います。
シナリオ構成には少し、いや、かなり不満があるのですが、とりあえずそれは置いておきましょう。
アニメ版『CLANNAD』の大きな特徴として、カットの切り替えの早さが挙げられるかと思います。例えば第3話Aパートの岡崎朋也古河渚の会話シーン。

ここから、似た構図の

ここまでが1分20秒、その間に20回もカットが切り替わっています。同じ場所に座って会話していただけなのに。ただ、その全てが何かを語っているというわけでもなく、捨てカットに近いものを差し込んで強制的にリズムを作っているという感じ。第2話Bパート、朋也の自宅シーンも分かりやすいのではないでしょうか。

僕は映像作品の面白さについて、大きく「強度」と「鋭さ」に分けられるのではないか、と考えています。『CLANNAD』はとにかく鋭い。間を作らず、どんどん流していきます。本当は「強度」のある絵で間を作った方が良いと思うのですが、以下のシークエンスのように「鋭さ」を徹底すると、バランスの良い作品とは違った面白さ生まれることも。

カットだけを見せられても何が面白いのか分かりませんが、ここでは場所を変えながら一続きの会話が描かれています。「動き」が一致していないのでジャンプカットと呼ぶには抵抗を覚えますが、映画っぽい繋ぎ方ですね。屋外、廊下、トイレと空間の広さに合わせて声のエコーがきっちり調節されている辺りにも(当然のことかもしれませんが)ちょっと感心。
もうひとつ、これは『CLANNAD』に限った話ではありませんが、京アニ作品を読み解く上で「視線」の問題は外せないでしょう。

このように画面の前方に遮蔽物を配置して、視聴者の視線を顕在化しています。他にも誰の視点かはっきりしているカットでは必ず画面をゆらゆら揺らしたりするなど、「視線」に対して意識的であろうとする態度が見られます。


ただ、以上に挙げた面白いカットあるいはシークエンスが、総体として面白いドラマを作り上げているかと問われると、若干疑問に思います。特に第3話のラスト、渚が朋也にバスケをしようと誘い、その翌日、雨の中、朋也が来るのを待っているシーンは「?」のバーゲンセールでした。

何故朋也はバスケをしに来なかったのか?
「右腕が上がらないんだ……」
昨日言えよ!
石原監督はインタビューで

石原:昔と現在のアニメではかなりテンポが違うと感じています。昔はギャグの部分から泣きのシーンに移行するとき、今よりも時間をかけていたはず。でも、今の若い人から見ると、あんまり時間をかけるとタルく感じられてしまうのではないか?ひょっとしたらギャグのシーンから、すぐに泣きや寂しいシーンに移行しても、意外とついてきてくれる……そのくらいのテンポでないと飽きちゃうかなと思っています。

WebNewtype - アニメ情報誌「月刊ニュータイプ」公式サイト

と語っていますが、「物語る」ことの本質はリズムをコントロールすることにあると僕は考えているので、ちょっと共感出来ないな、と。
均質なリズムは別世界の日常でしかありません。楽しいときには速く、辛いときにはゆっくりと時間が流れていく。それはもちろん嘘なんですが、ころころと変わる表情よりもずっと豊かな感情を時間の流れは表現してくれます。
今期のアニメだと僕は『ef』を非常に高く評価しています。あの作品の映像には「強度」があり、「強度」のある映像は必ず「時間」を内部に含んでいる、だからキャラクタの顔を殊更に映さなくても感情が伝わってくるのです。

このようなオーバーリアクションで感情を表そうというのは、どう見てもスマートな方法だとは思えません。大体は「よく動くアニメ」として好意的に見ているのですが、時々動かし方があざとく見えるシーンがあるから、人に勧めようとは思わないんですよね。


ちなみに最近、誕生日にエロゲをくれる友人K氏と話をしていたら、アニメ版『CLANNAD』の話になり、ゲームの内容を詰め込みすぎてテンポが悪い、という点で意見が一致しました。しかし、話を省略しても良い、というか、はっきり言えば「いらない子」は誰だろう?という点では意見が対立。
K氏は風子がいらないと言いました。風子がいらないなんて、そんな馬鹿な。僕も内心では風子の話が一番つまらないと思いつつ、可愛いし、渚の話と絡めやすいじゃないか、むしろいらない子なんていないんだ、と全力で弁護しました。

ところで僕はことみがいらないと思います。