批判されるために批判する

誰も傷つかない世界が無理ならば、誰もが少しずつ傷つく世界を求めたい。
安全な位置から他人を批判するための「護身術」は大嫌い。

人をほめるときは大きな声 で、悪口を言うときはもっと大きな声で
−『銀河英雄伝説』より−

「あなたの意見を押し付けるな」と誰かは言った。「あなたはあなたで、私は私。全員が同じ考えだなんてありえないのだから」
僕たちはみんな違った人間だ。その「違い」をなくしていこうとする方向が歴史上何度もあらわれた。また、「違い」の中に価値を見出すことで、自身の立場を強化しようとする方向もあった。
それらの反省を踏まえ、他者を他者として認めよう、という相対主義が生まれた。しかしそれも、考えが異なる個人が互いに異なる世界に住んでいるという思想であり、他者との間に越えられない溝をつくり、やがては人を文化的アパルトヘイトへと導いていくものだという批判を受けた。
自分と他者の「違い」は僕たちの前に厳然として存在する。それを当たり前のこととして許容することも、あるいはその「違い」は社会が生み出した幻想であると批判することも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないだろう。
それに比べれば、批判し、批判されるという関係は幸せだ。
他者を批判するとき、それを批判するのはどうしてかと自分を省みることになる。そして、批判対象と同じように自らも偏狭な立場に立っていることに気付かされる。つまり「自己」と「他者」の違い、そして類似性を見出すことが出来る。そこに他者との連帯の可能性を見出すことも可能だろう。
相対主義を意味のあるものにするためには、常に自己への問いかけが行われること、そのための他者との対話、それも「違い」があることを前提とした対話が必要なのである。
だから、僕は批判され得る記事を書こうと思う。隙のある記事を書く、という意味ではない。何について書いているのかを曖昧にしたり「好き嫌いは人それぞれですから」で締めくくったりという護身術を使わないということだ。ムッとすることもあるが、文責の明らかな批判に対しては、敵対心と同じくらいの親しみを感じている。

敵よ!
殺してみせろ!!
この心臓に銃剣を突き立ててみせろ!!
500年前のように!!
100年前のように!!
この私の夢のはざまを終わらせてみせろ!!
愛しき御敵よ!!
−『HELLESING』より−

関係ないが、以前書いた記事を読み返していたら、書いた覚えの無い「スーパーハカー参上」という文章を見つけて本当にビックリした。