アニメ・コラージュ・空間

最近のアニメにおけるパロディというのは、引用元のイメージをひっくり返したいとか、援用して何か主張したいとか、そういうのではなくて(少なくとも、『らき☆すた』でケロロ軍曹のぬいぐるみやアニメイト大宮店が出てくることについて、上記のような意義を見出すことは難しいでしょう)、全体的な統一性を保ちながら部分ではバラバラという、コラージュ的な効果を演出するために使われているんじゃないかな、という気がします。


コラージュについてはジャン=リュック・ゴダールの映画を見てもらうのが一番手っ取り早いのですが、ここではゴダール自身の言葉を引用しておきましょう。

言語はなんのためにあるのかを考えるのをやめたくなるほど、あちこちにこんなにたくさんの記号があるのはどうしてなのか?現実が曖昧になるほどに……たくさんの意味をもった記号がたくさんあるのは何故なのか?

ゴダールの『気狂いピエロ』を「映画のコラージュ」と呼んだのはルイ・アラゴンですが、至言というべきでしょう。主人公にランボーの詩を読ませ、壁にピカソの絵をかけ、本筋とは関係のない会話をだらだらとさせる。僕たちの住む世界はひとつの「あらすじ」にまとめられるような統一された(あるいは静的な)ものではなく、バラバラの記号がぶつかり合い、互いに変成作用を起こしあう動的なものである、という世界観がここでは見られます。コラージュの精神とは、本来的にはそういうものだと言えるでしょう。


映画というメディアは、フレームの中に収められた世界を「ありのままに全て」映し出します。とはいっても、現実にはピントの合わせ方や照明の当て方で色々変わってくるのですが、原則としては全て映してしまう。そのようなメディアにおいて、リアリティを追求した結果ゴダール的なコラージュに行き着く、というのも、逆説的ですが必然ではないかな、と。


前置きが長くなりましたが、ここからアニメの話。
絶望先生』や『らき☆すた』は空間を記号で埋め尽くし、『クレイモア』は無駄をぼかしや逆光で排除し、人物を中心とした小さな空間を作り上げます。それらに共通するのは「空間をどう利用するか」ということであり、人物と背景の間にある伝統的な主従関係が問い直されつつあると言えるでしょう。その意味では、アニメも映画的な「ありのままに全て」映し出すメディアに近づきつつあるのかもしれません。


らき☆すた』を見ながら色々考えたのですが、あの作品を考察する上でオタク文化の視点から見るだけでは不十分で、映画的な視点を取り入れると大分すっきりするんじゃないかと思いました。
一方の側に堆積されたアニメや漫画の歴史があり、もう一方の側に映画の世界で養われた表現技法があります。イマジナリーラインとか、小津安次郎みたいな構図とか。以前 「らき☆すたが提供しているのは「楽しい空間」だ」という記事を読みましたが、その記事を書いた本人とは違った理由で賛成です。仮に京アニ以外の会社が同じ題材を同じ予算で作ったとしても、同じくらい面白い作品になるとは思えないんですよね。端的に言えば、同じ世界をどこから眺めるか、どこに区切りをつけるかという「空間の切り取り方」に個性が見出されるのです。


あと、現代は作り手にとってプロットやキャラクタが個性とは感じられない時代である、ということも重要な観点であると思います。こちらの記事に詳しいですが、富野由悠季宮崎駿が自分のアイディアを独創だと信じたようには、現代のアニメ作家たちは信じられません。独創ではないものを組み合わせて作品を作り上げるのだから、どうしてもコラージュ的になってしまう。『涼宮ハルヒ』の過剰に類型的なキャラクタ造形なんかは、その辺の諦観に由来しているのではないでしょうか。


あー、長い上にまとまらなかったですね。ごめんなさい。
参考URL
コラージュの奇跡『気狂いピエロ』 - tukinohaの絶対ブログ領域
http://d.hatena.ne.jp/banana-cat/20070829/1188360826
「キャラ」と「キャラクター」の違い - このページを読む者に永遠の呪いあれ
『らき☆すた』の演出に関する雑感 - tukinohaの絶対ブログ領域
http://xn--owt429bnip.net/2007/04/rakisuta1.php
参考作品

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