雑記8/30
ぐずぐずと半泣き状態の天気が続いています。庭の木に水をやる手間が省けたのでラッキィ。
暇だったので澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』を読了。以前、今年の夏は澁澤を読むぞ!と決意したのですが、まだ2冊。
- 作者: 澁澤龍彦
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1983/05/10
- メディア: 文庫
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「無理解と偏見にみちたサドへの理解と対決して、その真実を究明しその華麗な全貌を捉えたサド文学評論決定版」
という裏表紙の解説は少し間違っていて、サドを取り上げるときは貶すにせよ称揚するにせよその異常性が強調される傾向にあったのに対し、本書では生活の心配をしたり年を取って凡人になったりする姿を通して「人間」サドを描いていることに特徴があります。「華麗」とは程遠い。
それと、当時の澁澤には精神分析学からの影響が強く見られるテキストが多くて、そういうのが苦手な僕にはすこし辛いなぁと思うことがあるのですが、この本に関しては現実の事件に基づいている分、まあまあ納得の出来る解釈が多かったように思います。
例えばアルクイユ事件でサドは、宿に連れ込んだ女性を鞭で打つと同時に、自分もまた彼女たちに鞭打たれています。これを澁澤は、フロイトの援用によって「サディズム=マゾヒズム」と一般化し、マゾヒズムを「内部に向けられたサディズムの部分衝動」と定義しました。エッセイだとその一般論で終わってしまうところを、澁澤はサド個別論へと踏み込みます。
「ただ、ここで注意すべきは、サドが真の意味でのマゾヒストではないということだ。真性のマゾヒズムは、中世的な世界、魔術的な世界に浸っている。(中略)彼はマリエッタに鞭打たれながら、自分の受けた鞭打の数を、暖炉の煙突にナイフで丹念にきざみつけた。打たれている自分を観察している自分。彼のサド=マゾヒズムは、融通無碍な精神の自己運動として、受動と能動のあいだ、屈辱と傲慢の間に絶えず揺れ動いていたのである」
膨大な先行研究と資料に基づいて「無理解と偏見にみちたサドへの理解と対決」というスタイルを取ったことにより生まれた、他の著作ではちょっと見られない堅実さ。「『赤ずきん』のずきんの赤さは月経を象徴している」という精神分析学者の解釈を平気で紹介していたときのように反発を覚えることもなく、非常に読みやすかったですね。