近代の民衆と戦争

終戦の日、ということで何か書いてみようと思ったのですが、昭和の史料をごっそり忘れてきたので大したことは書けません。
この時期になると「どうして戦争を始めなくてはならなかったの?」とか「もっと早く戦争を終わらせることは出来なかったの?」などといった疑問を抱き、それについて考える方も多いと思うのですが、右左の立場を問わず、その疑問に対しお手軽な回答を与えるべきではない、と僕は思います。「それはね、連合国に石油を止められたからやむを得なく……」「軍部に長期戦のプランが無かったから……」とか、ね。
本来、歴史というのは切り売り出来るようなものではありません。日中戦争を、太平洋戦争を論じるのであれば、少なくとも明治後期辺りから叙述を始める必要があるでしょう。また、視野を広く持ち、政治家や軍人だけでなく、大衆も意志をもった政治主体として扱わなければなりません。
そのため、現代に生きる大衆にとっても、戦争を自身の問題として引き受ける必要があると思うのです。「悲惨だった」「苦労した」だけではなくて。
その点、日中戦争の最中に行われた斉藤隆夫の「反軍演説」は非常に興味深いものです。
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少し解説すると、開戦当初は第1次近衛声明で「国民政府を対手にせず」と強気だった政府も、戦争が長期化するにつれて

「固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢えて之を拒否するものにあらず」
(第二次近衛声明)

「日本が敢えて大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざることは明らかである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し、且つ租界の返還に対して、積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである」
(第三次近衛声明)

と、その態度を軟化させていきます。政府としては将来のリスクを軽減させるため、早めに和平を結ぼうとする方向へ向かっていたわけです。
けれど、すでにリスクを払ってしまっている一般民衆としては納得できません。リスクに見合うリターンが無ければ納得できない。民衆のそういった感情を斉藤は「反軍演説」で代弁します。

諸君もご承知のごとく、我国はかつて四十余年前に支那と戦った。三十余年前にロシアと戦った。これらの戦いはいずれも国運を賭したる戦いであったに相違は ございませぬが、今回の戦いと比べまするならば、その規模の大なること、その犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない。しかるにこれらの戦 いは、如何なる条件をもって、和平克復を見るに至ったかということは、歴史がこれを明記しておりまするから、ここに述ぶる必要はない。それ故にこれを過去 の歴史に鑑み、またこれを東亜における大日本帝国の将来に鑑み、これを基礎として、もって事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及ばず、日本全国民は断じてこれを承知するものではない。(「ヒヤヒヤ」拍手)政府においてその用意があるかないか、私が問わんとするところはここにあるので あります。
(反軍演説)

この演説によって斉藤は衆議院から除名処分を受けますが、民衆から賞賛の手紙が多く送られただけでなく、その後の翼賛選挙において軍部からの選挙妨害を受けながらも当選を果たし、衆議院議員に返り咲いています。
近代の民衆は、もはや「大東亜戦争」というお題目に踊らされたり、あるいは戦争の負担に対して抵抗したりするだけでなく、国家に対して進んで利益を要求する「権利者」としての意識を持っていた、と言えるでしょう。その「権利者」である民衆の協力なしには総力戦を遂行出来ない以上、政府は民衆の要求を汲み上げつつ、時には「愛国心」をもって押さえつけていく必要があったのです。
と、つらつら書いてみましたが、ただ納得したり反発したりするだけでなく、その前後関係も含めて考えを深めていってくれることを期待します。当ブログでも[歴史]カテゴリで日露戦争から叙述を始めているので、そちらを参照しても可。もっとも、完結まで1年くらいかかりそうですが。