「見られずに見ること」−主人公とプレイヤの関係とその変化

つまり、「萌え」とは、見る主体である「私」を隠蔽し、客体となることを拒み、「透明な存在」となってただ一方的に見る行為である、ということです。
この理屈は、数年前までの萌えエロゲ(『To Heart』とか『Kanon』とか)を分析する理屈としては、それなりに説得力がありました。
それらの作品では、主人公が画面にあらわれず(あらわれても前髪で顔がかくれていたりする)、ただ美少女たちのみが「見られるもの」として客体化されているように見えたからです。
でも、ニコニコで見られるのは、その「私」を託された視点人物であるはずのキョンが、ヒロインたち以上に「萌えキャラ化」している。この現状は何なのか。腐女子が遊んでいるだけなら簡単なんだけれど、どうもそうは思えないんだよな。
(中略)
結局、男性だって、オタクだって変わるのだ、ということではないでしょうか。ここに来て、男性も同じ男性を「見られるもの」として認識し、ときには自分自身をキャラクタ化できるようになっているのではないか。

ニコニコではキョンは長門より人気が高い。 - Something Orange

この記事で取り上げられているササキバラ・ゴウ氏や本田透氏の著作を読んでいないので的外れになるかもしれませんが、「見られずに見る」という話はフーコーの『監獄の誕生』がルーツとしてあるのではないかと思います。
フーコーにとって「見られずに見る」ことは権力の問題でした。言い換えるなら、支配されていると気付かせない支配のあり方、ということ。監獄のシステムがまさにそれで、看守は囚人には見えない場所から監視を行うことで、囚人は監視されているというストレスを回避すると同時に、看守と囚人の間の権力格差にも気付きにくくなる、これが近代的な権力のあり方だと。
エロゲ的にもこの構造は当てはまるのではないでしょうか。主人公=プレイヤとその他のキャラクタの間には選択肢という大きな権力格差がある。それを隠蔽しているのが監獄の「見られずに見る」システムだ、と。
ただ、最近では主人公=プレイヤという図式が必ず成り立つとは言いがたいでしょう。『School Days』の話でも少し触れましたが、主人公もキャラクタのひとりとして認識する傾向が強くなっているように思われます。
『School Days』−共感を求めない主人公 - tukinohaの絶対ブログ領域
涼宮ハルヒ』のキョンも同じく、読者との一体化を避けるようなところがありますね。一人称なのに、考えていることや感情を正直に書かない。はぐらかす。そうなると、全てがわかる・思い通りにコントロール出来るという主人公の特権性が失われ、その他のキャラクタとの権力格差が解消され、「見られずに見る」システムは必須のものではなくなるのではないかと僕は思います。
つまり、変わったのはあくまでも主人公に対する認識であって、作品の受け手にそれ以外の積極的な変化を見出すことは難しいのではないでしょうか。少なくとも、オタク自嘲ネタをもって「男性も同じ男性を「見られるもの」として認識し」というのは無茶ではないかと。「見られる」というよりは「見せる」というべきだし、それはむしろ監獄の構造に近い一方的な関係にあるのではないでしょうか。