南北朝正閏論争について

面白そうな話題を見つけたので便乗します。

 さて、佐藤は、南北朝正閏問題は明治期に解決済みである、三種の神器をもって即位すれば正統な天皇だと言っている。私が文庫版解説を書いた宮崎哲弥『正義の見方』(新潮Oh!文庫)で宮崎は、戦後、南北朝正閏論がきちんと議論されてこなかったと一章を使って論じている。では宮崎もまた、稚拙な議論をしていることになるのか。それなら佐藤は、よろしく宮崎著を読んで、すべからく宮崎の稚拙を指摘すべきである。


 また、明治期に解決済みと佐藤は言うが、それは「南朝正統」として解決したのであり、それゆえ北朝は正統な天皇ではないとして、以後、「南北朝時代」ではなく「吉野朝時代」と敗戦まで呼ばれていたはずだ。それならなぜ現在「南北朝時代」という、否定されたはずの表現が行われているのか、佐藤に問う。

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全体の文脈については引用記事本文を見てもらうとして、ここでは南北朝正閏論争の話だけ。
去年の論文ですが、池田智文「「南北朝正閏問題」再考--近代「国史学」の思想的問題として」(『日本史研究 通号528』所収)にその辺の経緯がわかりやすくまとめられています。以下の内容はそれに基づいて書いたものです。


結論から先に書くと、歴史学者にとっても政府にとっても「南北朝並立」というのがスタンダードだったということになるでしょう。少なくともアカデミックな立場において「南朝正統論」が主流になったことはなかった上に、政府もそれに近い考えを持っていました。ではなぜ終戦まで「吉野朝時代」と呼ばれていたのか?そこにある種のダブルスタンダードがあるわけです。
一般的な理解では、政府によって「南朝正統論」が押し付けられた、ということになるのでしょう。確かに佐藤進一の『日本の歴史8』(中公文庫)を見ても、そのような感じで書かれています。
しかし、政府の押し付けだと見るのは単純すぎる、政府の側でも非公式には「南北朝並立論」を容認していたし(政府高官の発言からそれは読み取れる)、歴史学者の側でも「南朝正統論」を「文句を言うほどのことではないな」と受け入れる土壌が整っていた、というのが池田氏の主張です。つまり、南朝正統にも北朝正統にも、どちらにでも転ぶことが出来たのですが、実利的な発想から一般向けには「南朝正統」と言っていたのですよ、と。


自分が最近調べているテーマと絡めつつ、具体例を挙げてみましょう。
南北朝正閏論争というのはそもそも、国定教科書南北朝を並立したものとして書いたところ読売新聞の社説に取り上げられたことで問題となり、最終的には教科書執筆責任者である喜田貞吉が休職になった、という事件のことです。これだけを見ると単純な学問弾圧なんですけど、実際は少し違って、当の喜田貞吉南朝正統論に同調するようなコメントを残しているのです。そのおおまかな内容は「学説としては絶対に南北朝並立が正しいけれど、学校教育では南朝正統でも良いんじゃない?忠臣の多い南朝を正統にした方が、道徳教育上都合が良いだろうから」というもの。
つまり、この論争を貫く大きな問題は「学問と教育の意識的な切り離し」です。現代で言えば、某教科書をつくる会の人と同じ発想ですね。


喜田貞吉がそもそもどういう人間かと言えば、ぶっちゃけて言えば文化財保存活動に携わっていた人です。ちなみに戦前の文化財保存活動というのは「1.学問的厳密さ」「2.教育目的に基づいた文化財の価値判断」この2つを両立させるところに特徴がありました。政府の方針でもそれは同じ。ここに見られるダブルスタンダードは戦前の史学史を理解する上で重要なものではないかと思います。
これを南北朝正閏論争に移し変えると、南北朝並立という「学問的厳密さ」はアカデミズムに閉じ込めて、教科書に載せるという「教育目的」の為なら「学問的厳密さ」は曲げても良いかな、という妥協があったわけです。これが戦前のアカデミズムに見られる大きな流れだと言えるでしょう。すごく実利的な発想ですよね。だから「南朝正統」が政府の公式見解になったからと言って、アカデミズムがそれを本気で信じていたというわけではないし、政府にしてもアカデミズムの立場を尊重する度量はあったということです。まあ、東大の国史学科あたりでは色々大変だったようですが……


多少結論らしきものを述べさせてもらうと、南北朝正閏論争を「神皇正統記が〜」とか「三種の神器が〜」という問題に落とし込むのは単純すぎる、ということです。人間は思想で生きるほど高潔な生き物ではないですよ、基本的に。だから

 『神皇正統記』における正統性の論理構成は、皇統の伝統とともに真正の三種の神器の保持していることが天皇の条件です。従って、北朝系でも真正の三種の神器を保持している室町以降、今日に至る皇統は真正の天皇です。『神皇正統記』は南朝北朝の双方を通底する正統論であるというのが通説です。

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なんて言われても、はあ、さようですかとしか答えようがないわけです。