異文化を尊重することの難しさ

欧州連合(EU)の欧州議会で「動物虐待の要素が強い」などとして、域内での闘牛の禁止を目指す動きが活発化したのに対し、スペインの闘牛関係者は11日「闘牛は欧州の“文化遺産”だ」とする反論文を発表し、全面対決の姿勢を示した。

動物虐待だ!モウ止めろ…スペイン「“文化遺産”だ」

ニューメキシコ州は12日、闘鶏を禁止した。闘鶏は動物愛護団体の批判を受けており、これによって米国で闘鶏が認可されている州はルイジアナ州だけになった。
ビル・リチャードソン知事は法案を可決した後、「私はニューメキシコがいま闘鶏を廃止し、すでにこの時代遅れの習慣を禁止している48の州に加わったことを誇りに思います」と述べた。

伝統か動物虐待か 消えゆくアメリカの闘鶏

こういった記事を読んで「他国や異民族の文化を何だと思ってるんだ!」と憤る人は、例えばインドにおけるサティという習慣(死んだ夫を焼く火の中に妻が飛び込んで殉死する)の当事者となっても認められるのか、あるいは女子割礼(はっきり言えば女性性器の切断)を素直に肯定できるのかということを考えてみる必要があると思います。
反対に「闘牛に闘鶏?そんなの野蛮だよ」と言う人は、西洋世界においては女性の人権弾圧として糾弾の対象ともなった女子割礼が、スーダンで調査をした人類学者によれば同じ女性によって積極的に支持され、祝福さえされているという事実をどう受け止めるのか、これも考えてみる必要があると言えるでしょう。
「異文化を尊重する」とはどういうことなのでしょうか?
お互いの文化を「あるがまま」に肯定する文化相対主義が、時として「違う文化に住むもの」を「違う世界に住むもの」として越えられない溝を作ってしまい、やがては人種差別へと繋がっていくパラドックス
人間に出来ることはいつだって「より正しそうな答え」を探すことだけである、という前提に立った上で、「異文化を尊重する」他ならないあなた自身の態度を直視することを始めた時、本当の異文化交流は始まるのだろうと僕は考えています。