時間のねじれ

河原で小麦粉をかけ合い、白髪のような頭になりながら考える。年を取るほど馬鹿になったり、だんだん子どものようになったりするのも悪くはないな、と。違いといえば、粉まみれになった服を親が洗うか、自分で洗うかくらい。
「君は子どもか、それとも大人か」。大人であれば子どもではない、子どもであれば大人ではない。この時点で思考はすでに硬直している。昨日は子どもで、今日は大人。7割子どもで、3割大人。それくらいの自由は誰だって持っているはずなのに、「自分は大人だ」と決めた瞬間から大人でしかいられなくなる。
自分が何者かを決めるのは、墓に入ってからでも遅くはない。「子供っぽさを持っていないような人間が批評などやるものではないっ!」と筒井康隆も言ってることだしね。
言い訳っぽいなー。いやはや。