『ひだまりスケッチ』の時間と日常

今回は『ひだまりスケッチ』というアニメを通して「日常」と「時間」の関係性、そして背景描写について考えてみたいと思います。簡単な作品紹介はこちら

ひだまりスケッチ 6 [DVD]

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今更言うまでもないことかもしれませんが、物語を生み出すことは、時間の流れを設定することと深い関係を持っています。印象的な時間は引き伸ばし、退屈な時間は端折り、物語に必要のない時間は省略する。それだけに昔から「ありえない時間の流れ」を表現しようとする作品はいくつも生み出されてきました。『タイムマシン』みたいなやつですね。『ひだまりスケッチ』もあえて話の順番をバラバラにし、モザイク状の非連続的時間を描いたという点で『タイムマシン』の系統に属しています。原作におけるクロノス的時間(現実と同じように、均質かつ直線的に流れる時間)への強い意識も、アニメ版と方向性は反対ですが「時間への洞察」という点では共通していると言えるでしょう。
逆説的だと思われるかもしれませんが、こうした時間への洞察が『ひだまりスケッチ』のような「日常」を描いた作品を生み出したのだと僕は考えています。これまで圧縮・省略されてきた「退屈な時間」「物語に必要のない時間」に新しい美学を発見することができないか。そんな疑問から「日常を描く」ことは出発しているのではないか、と。作品において描かれる「日常」が本当に平凡なものではなく、いわば「実際にありそうで実はありえない」ものであるのも、このような物語論的な発送が根幹にあるためではないでしょうか。
しかし「日常を描く」と言ったところで、日常全てを描くことはどう考えても不可能なわけです。ひだまり荘から学校までの道のりは省略され、食事は一瞬で終了する。古典的作品群が日常を「無為なもの」として切り捨てたのと同じように、現代の日常を描いた作品もまた、日常の中から「無為なもの」を切り捨てずにはいられません。どれだけ時間性を洞察したところで1話30分で完結させる必要がある以上、時間の圧縮・省略からは逃れがたいものがあります。
つまり「どこを圧縮・省略するのか」という力点の問題なのですが、それは作品の価値観と深く関わっていると言えるでしょう。「日常を描くことの価値は何か?」この問題についてはまた別の機会に考えてみたいと思います。
ただ、「日常を描くこと」がある種の価値転覆を伴っていると仮定すると、あの前衛的な背景も同じ視点から解釈することが可能となることだけは書きとめておきましょう。つまり「この物語に背景は必要ない」ということを、他ならない背景自身が語りかけているのではないか、と。そこに「必然性の放棄」を読みとることさえも可能となるでしょう。