「この作品が好きだ」と胸を張って言えるのか

http://d.hatena.ne.jp/t-j/20070329
オタクエリート」がもっと名作を評価して、クリエイタが名作を生み出す土壌を作ろうぜという話。そもそも「名作」は誰が判定するの、という視点がない以上、価値観の押し付けだといわれてもやむをえない部分はあると思います。
ですが、僕はこの引用元の筆者に対してすごく共感を覚えました。感動した、と言っても良いでしょう。
僕自身の批評傾向としては、作品の価値判断まで踏み込まない(踏み込めない)、解釈の多様性を示すだけにしておくことが多いです。それがある意味ではレビュアの誠実さであると僕は考えているので。
その一方で、僕は引用元の筆者や
がくえんゆーとぴあ まなびストレート!がオモシロイ - 吉田アミの日日ノ日キ
のように、ある作品について自信を持って肯定出来るレビューも大好きです。何その矛盾、という話をもう少し。


人を動かす批評には例外なく「熱」がある、と僕は思います。それが作品に対する愛のためなのか、批評を生み出すことそれ自体が好きだからなのか、判別することは出来ません。ただ、両者は同じ幻想を共有しているという、その一点でのみ繋がっています。
それは「言葉が相手に伝わる」という幻想。
オタクエリート」の賞賛が新しい名作を生み出すという考える人も、
自分が名作だと感じたものを他人に勧めようとする人も、
僕のように優れた批評だけで自分の周りを固めようとする人も、
みなこの幻想を共有しています。
広大な批評空間の中でひとりのレビュアが声をあげたとして、なぜそれが他人を動かし、ムーブメントを起こすと考えるのか?価値の相対化が進んだこの世界で、君の主張に価値はあるのか?答えよレビュア。汝は何者だ?
そんな声に屈服して幻想を手放すレビュアがいる一方で、本当に他人を動かしムーブメントを起こした者たちは例外なく、最後までその幻想を手離しませんでした。自身の卑小さを知り、価値の相対性を知り、それでも自身の意見を主張し続けること。それこそが「人間の意志」であり、優れた批評の持つ「熱」の源ではないか、と僕は思うのです。
話題の発端となった『まなびストレート』のOPから引用するならこんな感じでしょうか。

嘘でその場をうまくやりすごしても きっとくやむから
過去も未来ももちろん今も 全て背負うのは自分だもの 悩もう

自分なんてオタクとしては羽も生えない、地面を這い回るヒヨコのようなものですが、「オタクエリート」と呼ばれる人々も決して翼の生えた鳥ではない、と僕は思います。最後にジャン=ピエール・リシャールの言葉を恣意的に引用しておきましょう。

「そこに湧出と明るみの場所を見つけるために。批評は地下の道行きを好むのである」
−『マラルメ』より−


以上の話の大半は以前にもコメント欄で一度した話ですが、『まなびストレート』についての言説とも多少関連したところがあると思ったので書いた次第。乱文乱筆失礼しました。
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