有賀長雄・加藤弘之ほか

社会進化論と社会有機体説
・左古輝人「社会概念の再検討」『人文学報』43号(2008年)
社会学が社会と国家を同一視してきた、という批判にこたえて。社会有機体説が国民国家を社会進化の現段階として肯定的に評価してきたのは事実であるが

しかし当時、社会有機体進化説がそのような観点から重視されたのは、主権的国民国家と産業資本体制の体裁を整えることを課題としていたドイツや日本、ロシアなどにおいてであって、先行してそれを達成していたイギリスやフランスにおいてではなかった。p139

なぜ社会有機体説は東ヨーロッパや日本で猛威を振るったのか?という問。
統計学が不振であった国とちょうど重なっている。
加藤弘之と「利己と利他」
加藤弘之「人類の論」『哲学会雑誌』6号(1887年)。原文カタカナ

そこで仁愛とか慈悲とか申すことを能く解剖して段々其理を究めて見るに此仁愛慈悲は通常学者の考へた通りに利他心から出たものてなくして全く利己心から出たものと思はれます即己を利する心より他を利する心が出てくる(p273)

加藤は社会の成立要件に言語、風俗などの近縁性を挙げる。この近縁性ゆえに「社会を成すと互に親族の様になり親近でありますから互に他人の為に利益を計ることは矢張り自分の為めに利益を計ると同し様になつてくるものてあります」(p273-274)

併しそうは申すものの兎角真に己ればかりを愛する者が多いことゆへそこて社会の初まりより自然道徳や法律と云ふものが出来て吾党は互に相愛して相害することのない様に責めたものであります(p276)

社会の人が互ひに慈悲を盡し仁愛を盡せば社会が盛んになり、それを盡さん社会は瓦解して仕舞う様になりた他の社会と互に争ふ時は最も然うで同社会の人が互いに慈悲を盡し仁愛を盡す様なれば勝てるぞそれでなければ負けて仕舞うは当然のことでありますそこで社会には必ず道徳法律か行はれねば社会は立たぬ道理てあるは明かなことであります愛国心の必要と云ふも茲の道理であります(p277)

加藤弘之『自然と倫理』(実業之日本社、1912年)
クロポトキンの相互扶助説への批判(1)−対内的には相互扶助、対外的には生存競争

苟くも既に多少の協同生存あらん歟必ず相互作用の必要なることは無論である若しも相互作用が絶てなく単に競争作用のみ盛にして協同生存の成就し得べき理のなきは固より当然のことである果して然らばクロポトキン氏は全く解りきつたことを殆ど新発明の如く述て居るのであるから実に無用の弁を費して居ることになるのである。
然るに凡そ生存競争なるものは協同生存をなして居るものの相互間よりは寧ろ協同生存をなして居らぬものの相互間に多く起るのである而して左様なる競争に依て自然淘汰が生じ、それで以て進化を促すことになるのである(p75-76)

批判(2)―対内的生存競争(淘汰と「間接的生存競争」)

のみならず殊に甚だ奇妙に感ぜられるのはクロポトキン氏が生存競争の反対現象として主張する所の相互作用其ものさへも矢張生存競争になるのてあつて且つ、それに依て倍倍大なる効果を生ずるのである其理由如何といふに個人又は団体が各負けじ劣らじと相扶け相済ふといふようであれば、それは取りも直さず全く相助のための競争といふものであつて其自然淘汰は倍倍敬愛の徳義を進めることになるのである。(p82)

海野幸徳といふ人があつて此人は進化学専門家と自称する人であるが此人の著「日本人種改良論」は余にも贈られたのであるから読て見るに是亦生存競争主義の反対である、ところが其書中に疾病による淘汰、酒精に因る淘汰、色欲に因る淘汰といふことを論じて居るのであるがその理由を説いた所で見ると海野氏が生存競争主義の反対者たるに拘はらず矢張全く此主義を主張して居ることになるのであつて甚だ奇怪に感ぜられる(p85)

これらの批判は、実際のところ語句の争いにすぎない。環境によりよく適応することで生存競争に勝利する、という共通の認識に対して、環境との関係(適応)と生存競争のどちらに力点を置くかの違い。


・初期社会学の動向
・スペンサー著、大石正巳訳「社会学」1883年(『The study of sociology』1873年の訳)
・「見易き原因/真正の原因」、「直接の結果/連鎖的な結果」の区別について。
貧民を救おうとすることはかえって「懶惰人」を増やす、と主張するくだり。

只其目前の原因と結果をのみ考察するも、敢て仔細に総ての事物の原因は頗る夥多ありて真正の原因は屢々見易き原因と異なるヿを深察する克はす亦唯一箇直接の結果は必ず数多間接の殆んと計算すへからさる結果と連続したるヿ知らさるなり(p8)

・「自由放任」と「社会は有機である」という主張、そして必然論について
人間における「自然治癒法」は必ず社会の機関にも存在しており、「必要なるは即ち其自然の治癒法をシテ充分に行わしむるの情形を保つの一事にあらすして何んそや」(p62―63)。

社会学進発して其の近接の原因より遡つて遠隔の原因を尋極し其第一の結果より第二第三の結果等順次に錯雑せる所に推極し学理上を以て社会の象像を研究するに至れは必ず世の所謂社会の害悪は悉く直ちに治癒するヿを得へしとの迷霧は忽ちにして之を消散せしむるを得し今夫社会を組織する人間の天性にして悪癖欠点ありとせんか人力を以て奈何に巧みに其組織構造を為すと雖ども決て其欠点より生出する所の結果を回避すへからさるなり(p63―64)

⇒この「連鎖的因果」という視点から、自由民権が発達する「間接的原因」を探ろうとする試みが。具体的には専制⇒民権という段階論をもとに、専制社会のなかに民権の間接原因を求める。
ex.)外山正一『民権弁惑』(1880年)
「圧政」が民権伸長の間接的原因であり、民権家の反対する徴兵令、地租改正、官立火災保険など「圧政」的諸政策はむしろ民権の伸長に寄与している!だから現在進行中の官立火災保険はやめよう、という提言。
・有賀長雄『社会学 巻一 社会進化論』(東京書林・東洋館、1884年)
日本で初めて「社会学」をタイトルにしたもの(ソシオロジーは「社会学」あるいは「世態学」p1)。
社会学とは社会進化の「解釈」の学。解釈とは「原因結果の次第に依りて事物の由来を説明するの謂なり」(p3)
網羅的な学としての社会学

此学を指して理学といふも亦其故あり。総へて理学といひ、或は科学といひ英語にて「さいあんす」といふは、只た一事物、、若しくは三、四事物の原因結果を講するのみに非すして、凡そ其科其類に属する事物は悉く之を網羅し盡くして其原因結果の次第を講する学をいふなり(p3-4)

特殊(=偶然)な原因―結果を扱うもの=歴史学、普遍的な原因―結果を扱うもの=社会学。よって歴史学社会学を基礎とし、普遍的な原因-結果のうえに偶然がどう作用したかを見なければならない。しかも、この普遍的な原因―結果を知ることで、史料がない古代のことも演繹的にわかるという。

社会進化の本然の理は唯た一あるのみにして、東西を以て異なること無けれども、一度之を知るときは、之に拠て各国の進化の大体を知ることを得へく、口碑文献に伝むらさる時代ありとても、此理に拠り、前後の事実より推度して、其間の変遷を知ることを得へけれむなり。(p11-12)

この社会学の「本然の理」を見るうえで、日本社会の歴史は適しているという。理由のひとつは日本社会の境界が一定であり、外来文化の影響と在来文化の区別をつけやすいこと、もうひとつは「記紀」の存在。
増補版(牧野書房、1887年)第1章「社会学の討究法」には次のようにある。

凡そ物を討究するの法を定めむと欲せば、必す先つ其物のすぢみち如何を知らさるへからず。即ち哲学の科語を以て言へば変化(ロウ)を知らざるへからず。〔中略〕例へば数学の如きも僅々五六ヶ条の単元即ち数量の理法を追ひて種々様々の算用を立てるなり。(p49-50)

単純な原理(生物界における有機体の原則p54〜)を特定し、その組み合わせとして複雑な現象(社会)を理解する。

さる程に社会学を討究するの法は即ち他無し、右等の理法を以て既に確定する者と為し、之に依て順序を追て第一に社会の発生する次第は云々、次に其成長する次第は云々、〔中略〕といふ事を演繹的に説き出たし、然して後帰納的に事実に微験して其的実を保証するに在り。されば其微験する事実の範囲広潤なるに従ひて演繹的の理論益々的実を加ふるは一目瞭然の義なり、是即ちスペンセル氏以下の学者か古今東西の蛮族及ひ開明国民に関する事実を蒐集するに汲々たる所以の者なり。(p59-60)

・外山正一の神話研究と「原因結果の概念」
清水瑞久「外山正一の歴史社会学」『社会学評論』54(3)(2003年)
外山正一の「日本知識道徳史」について。外山は社会学の啓蒙的役割を強く意識していた(「新体詩抄」のように、社会学的視点を載せるメディアの重要性を自覚)。その外山が「神話」という明治国家にとって最も重要な「物語」に着目したのは当然であった。

さて「日本知識道徳史」は、神の形が人間の身体と同型であることを執拗に強調することから始まる。〔中略〕しかし、重要なのは、人間化された神が、いかなる「知識道徳」の地平に立つのかということである。
その「知識道徳」の基盤となるのは、「原因結果の観念」である。「天体なれ地球なれ地球に属する山川草木人畜なれに至るまで何物に依らず、都て原因結果の天則に因て生せさるは無きことに成り居るが如し」〔『ゝ山存稿』前編173-4頁〕と外山は考えるのだが、この考えを神話的世界にも当て嵌め、その世界が、すでにして確固たる「原因結果の観念」の獲得に向けて進化し始めていると解釈する。(p257)

外山にとっての神話は、「原因結果の観念」によって解釈可能なもの(あるいはそうした観念の発達史そのもの)として現れている。

そして、「原因結果の観念」は、「数の概念」の発達によって補強され、さらに進化していくことになる。〔中略〕外山は神話の世界のあらゆる箇所から、「数」を引き出してくるが、そうすることによって、神話の世界の中にいかに「数の観念」が遍在しているかを指し示すのである。(p258)

徳富蘇峰における「社会進化」の必然と「主体」の関係
徳富蘇峰『新日本之青年』1887年『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』(筑摩書房、1978年)。
青年は社会の原因だが、社会は青年の原因である。

社会の大勢を詳にせんと欲するものは、先づ須く原因結果の大理に達せざる可らず。大凡天下の事物繁多なりと雖も、一として因縁因果の鉄鎖に連串せられざるはあらず。(p14-15)

弥耳敦〔ミルトン〕曰く「早朝を以て一日の天気を兆するが如く、小児を以て大人を卜す可し」と。然らば即ち今日我邦の青年社会を以て、他日の社会を卜するも、吾人は決て其の過たざるを知矣。既に社会将来の運動は、青年社会の方向に随て進行するものなりとせば、吾人は更に一歩を進み青年社会の方向は、何によりて制せらるるものなるかを究めざる可らず。然り、彼の青年の傾向は、浮雲の巻舒する如く偶然なるものに非ず。吾人は固より謂ふ、必ず其の傾向は、社会の大勢によりて制せらるるものなりと。(p15)

蓋し青年社会は社会の反射なり、社会は青年社会の鏡なり。故に複た青年社会の傾向を知らんと欲せば、必ず之を社会の大勢に卜せざる可らず。〔中略〕如此因果纏綿相依りて終始途を改めず。社会の理も亦精妙ならず哉。(p16)

社会学歴史学
有賀長雄に限らず、「歴史学の基礎としての社会学」という位置づけはこの時期広く見られた。
戸田貞三「建部先生の思ひ出」1948年(『戸田貞三著作集 第14巻』大空社、1993年)。

フェロノサは明治十三年まで政治学講義の一部として社会学を講じたのであるが、明治十四年東大の学科改正によつて、当時の哲学科及び和漢文学科第二学年に、世態学の名の下に社会学を講ずることになつた。フェロノサはH・スペンサーの社会学原理、W・バジョツトの物理と政治、L・H・モルガンの古代社会学等を使用して明治十九年まで世態学の講義をした。然るに同じ十四年に史学担当教授であり当時の文学部長であつた外山先生に史学研究の基礎として社会学の研究が必要であるとせられて、史学講義の一部として社会学を講ぜられた。外山先生はスペンサー、バジョツトを始めメインの古代法、バックルの文明史等を参考書とせられたのであるが、世態学とはいはずに社会学なる名を用いられていた。〔中略〕明治二十六年に帝国大学に講座制が設けられた時、最初の社会学講座担任者は外山先生であつた。(p170-171)

・雑誌『社会』について
『社会』は、加藤弘之(会長)、元良勇次郎、高木正義、富尾木知住、武井悌四郎、岡百世を発起人とする「社会学研究会」によって刊行された(のちに『社会学雑誌』と改称。1902,3年ごろに廃刊)。1899年に発行された第1号の諸論文からは、西洋からの輸入学問の段階を脱し、日本の実態に即した社会学の構築が志向されていたことが伺える(加藤弘之の巻頭論文)。
また「中央の権力を以てする団結即ち国家」と「自由団結」としての社会の区別を強調する有賀長雄論文、「社会問題」「犯罪問題」への危機感を訴える高木正義論文も、当時の社会学の関心の所在を示しており興味深い。

欧米諸国の持論は今や社会学に集中し、今日の学術界は殆ど社会問題の時代なりと称せられ、或は二十世紀の大問題は社会問題なりべしと吾も人も唱道して以て怪まざるに至れるは、偶々以て斯問題の人生社会に重要なる関係あるを知るに足らん。
(高木正義「社会学研究の必要」『社会』1号(1899年、31-32頁))

社会学の研究は此狭小なる心胆を開きて拡大にし、個人的を社会的にし、私欲的を公共的にし、秘密的を公同的に変化せしむべきを信ず。蓋し社会活動の理法を弁知し来れば、社会的たらざらんと欲するも得べからず、社会的観念にして勃発せんか、大事業を企図するの精神を発揮し、慈善事業、貧民救助忽所として成るべし。今日口頭以て社会と云ひ国家と称するも、其規模狭小にして事業挙らざるを以て之を観るに、社会の大勢は未だ私利私欲の個人的観念に支配せらるるか為めならざるを得んや。
(同上、35-36頁)

初期社会学の主要人物が結集したこの雑誌『社会』について、ある種の「壮士的」気分を指摘することができるように思われる。「北海道毎日新聞主筆の久松義典(「狷堂野史」)はこの雑誌を読む自らを、藩閥、政党、新聞雑誌のいずれからも距離をとった「社会家」と見なしている(狷堂野史「「社会」と社会の関係」『社会』16号、1900年、556頁)。
・「支那社会」への関心
高木正義「社会学研究の必要」『社会』1号、1899年。

支那社会に関する科学的研究の如き世界の学界に於て最も幼稚を極め、而して支那問題や将来の大問題たるものとす、政治上の変遷は畢竟社会の一現象に過きざれば、政治問題の釈義は一に社会の特質構造を極むるに非れば到底不可能の業に属するや必せり。(p43)

また、中国人は社会観念あって国家観念なし、という主張が1899年の時点で現れる(五來欣造「支那社会の特質」『社会』1号、1899年)。
参考:「支那支那人」『東京朝日新聞』1899年3月23日朝刊
清朝の危機と支那人の危機は同じではない、と前置きして以下のように続く。主旨としては日清戦争後の日本人が「支那人」を低く見る風潮を批判し「支那(国家)は弱しといへども、支那人(社会)は則ち強し」と主張。「文明の祖先」としての「支那人」を擁護する点にある(これが「支那社会停滞論」と裏表の関係にあることは明らか)。「国家と社会の分離」それ自体が評価されているわけでもない。

蓋し国家的組織は常に社会的組織の上に立つものにして、社会なければ則ち国家なしといへども、社会的組織は必しも国家的組織に依りて成るものにあらず、国家なくして猶且つ社会の存立を見る。支那人の社会的組織の如きは、殆ど之に庶幾からん乎。其の淵源を尋ぬれば、支那建国の体制より、又儒教主義の実行より、古来社会的組織をのみ重要視したる習慣は、其の形質こそ変化したれ、其の精神は今に至るまで存続せらる。

明治30年代における社会主義社会学の野合状態については以下。
下出隼吉「社会学の揺籃時代―当時の片山潜氏の傾向―」1928年(『明治社会思想研究』浅野書店、1932年)。
・河村望『日本社会学史研究・上』(人間の科学社、1973年、第3章)