『ガンダムSEED』と終りの不在

お盆の間にこんな本を読みました。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

以前、携帯電話とアニメの関係について記事を書いたときにも下敷きにした大澤真幸氏の著作。リストカット携帯小説のように現実の痛みを追い求める「現実への逃避」と、他者性のない他者(ソウルメイトみたいな)やカフェイン抜きのコーヒーを求める「現実の虚構化」が同時に進行している現代について丁寧に論じており、例えば田中ロミオの『AURA』の出現を予感していたんじゃないのと思わせるような先見性もあって、非常に面白かったです。
AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

その中でも今回取り上げるのは「物語の「終り」の終り」という話題。
ここで大澤氏は東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』に取り上げられた諸作品(『ひぐらし』や『CROSS†CHANNEL』)を通して、それらの多くが「反復(ループ)」という題材を扱っていることから、「オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないか」という問題を提示します。それは何故かと言えば、「物語はこれで終りました」「これ以外の展開はありえません」と宣言する超越的な存在―同書の用語に従えば「第三者の審級」―が現代では失われてしまったからだ、ということになります。だから、いつまでも二次創作やパロディによって「こういう展開もありえたのでは」という話が作られ続けるわけです。
この問題を考える上で示唆に富んだ作品として、同書に挙げられているものを除けば、(少し古いですが)『ガンダムSEED』が真っ先に思い浮かびます。
機動戦士ガンダムSEED 13<最終巻> [DVD]

機動戦士ガンダムSEED 13<最終巻> [DVD]

ガンダムSEED』では、物語の終盤に核ミサイルやジェネシス(という大量破壊兵器)が登場し、加えて「約束の地」や「人が数多持つ預言の日」といった台詞が発せられることにより、ユダヤキリスト教的終末論を予感させる展開が続きます。しかし実際には、終末論における「死と再生」のうち再生というテーマはすっぱり切り落とされ、終末は単なる「終り」ということになってしまっている。主人公たちの活躍によって「終り」は回避されますが、それによって訪れるのは「終わらない明日」(最終回のタイトル)であり、物語は文字通り終わらないまま続編である『ガンダムSEED DESTINY』へと引き継がれていくーというのが大まかなストーリィ。
ここで明らかになるのは、まず日本人における人格神的な神概念―歴史の導き手として内在し、同時に「始まり」から「終り」までを把握し歴史に外在する存在―の薄さであると言うことが出来るでしょう。大澤氏の言う「第三者の審級の不在」の原因をそこに求めることは可能。さらに『ガンダムSEED』では、物語を終わらせるために「全的な破局」が企図されますが、それが回避されることによって、より明確な形で「第三者の審級の不在」が明らかとなります。
つまり「第三者の審級が相対化されてしまうのは、それが、何ごとかを「善」として、あるいは「理想」として措定し、肯定しているからである。どのような積極的な善や理想も、より包括的な枠組みの中では、相対化されてしまう。だが、一切の肯定的な善をも措定せず、すべてを否定したとすれば、これを相対化することはできない。このとき、この破壊の力の担い手として、徹底した否定の作用の帰属点として、超越的な第三者の審級が回帰してくる」(同書211〜212P)のであり、破壊の力の担い手としてジェネシスが、そしてラウ・ル・クルーゼが描かれたと言えます。
しかし、それによる「全的な破局」さえもが否定されたときに何が残るのか。主人公・キラの最後の台詞は「僕たちは、どうしてこんなとこに来てしまったんだろう」で、ようするにわからない。ただ「終わらない明日」が続くようなので、物語を終わらせる必要もなさそうだ、と。


この「第三者の審級の回復」として注目されるのが、近年の成功したエロゲ作品に見られるゲーム性の無いゲーム、一本道のシナリオです。『ef』のように全ての物語を統合する超越的なキャラを登場させるのがその典型的な例。あとは、失敗や失恋による「痛み」を通して現実をより確実な現実にしようという傾向も見られますが、その話はまた今度。