『瀬戸の花嫁』に見る笑いの構造

瀬戸の花嫁 一 [DVD]

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日々アニメの話を書き連ねている当方ですが、『瀬戸の花嫁』は放置していました。いや、ちゃんと見てますよ?腹筋運動をする手間が省けて助かっています。でも、記事は書けない。何でかと言えば「ギャグほど人に解説するのが難しいプラス恥ずかしいものはない」から。
かと言って、あらすじを長々と書くのは中学生のときに読書感想文で散々使った手なので今更やりたくはありません(なぜか手を抜いた感想文のほうが評価されたりするんですよね。これって社会の縮図)。
というわけで敬遠してきたのですが、まあ、無粋は承知の上で一回くらい「ギャグアニメ」について書いてみるのも良いかもしれません。
「笑い」についてはアリストテレス以来多くの哲学者たちが分析を試みてきました。有名なところだとホッブズの「笑い=優越感」説、フロイトの「エネルギーの放出」説など色々ありますが、今回はショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』から一部引用してみましょう。

「笑いの根源はつねにパラドクスであり、したがって具象体とは異質の概念への具象体の予期しない包摂である。そしてそれにしたがって、笑いの現象は、つねにこのような概念とそれに基づいて考えられた現実の対象との間の、したがって抽象的なものと具象的なものとの間の不一致の突然の認知を意味している」

つまり「〜はこういうものだ」という概念と現実のそれの間に存在する矛盾、これが笑いの原因であるとショーペンハウアーは述べています。
しかし、矛盾とは常に愉快なものだと言えるのでしょうか?例えば下駄箱を空けたら爆弾が入っていた、とか、安全なはずの場所で銃を突きつけられた、のように状況によっては恐怖を呼び起こす矛盾も存在するわけですが
 
……あれ?面白いですね。そこでひとつ条件を追加します。「作品内においていかなる矛盾が現われたとしても、概念そのものは揺るがないという確信がキャラクタと読者の双方に存在すること」。
例を挙げると、留奈のイメージである「清楚なアイドル」と現実の「腹黒い部分」の矛盾に苦しんだ永澄が出家隠遁してしまったり、ハウリングボイスをくらって一生耳が聴こえ辛くなったりはしないという確信が、物語内のキャラクタと物語を鑑賞している私たちの両方に存在していることで、『瀬戸の花嫁』はギャグアニメとして成り立っているのです。また、アニメという媒体は絵を「歪ませる」ことが出来るために、概念と現実の矛盾を描くことに適しているとも言えるでしょう
もうひとつ、『瀬戸の花嫁』におけるパロディの意味に触れておきたいと思います。ショーペンハウアーは先ほど引用した文章に続けて

「したがって笑いを刺激するあらゆる事柄において、常に概念そして個別の出来事が確認されねばならない」

と述べています。概念と現実の矛盾が笑いを起こすのであれば、人は概念と現実の両方を知っていなければならないのですから当然の結論だと言えるでしょう。そこで、『瀬戸の花嫁』においては先行する他作品の概念を引用することで「現実」だけを見せれば済むようにしているのではないか、と僕は考えます(第10話の「鋼鉄の男」とか)。
このような引用のあり方は『らき☆すた』に見られるようなパスティッシュとは明確に区別しておく必要があるでしょう。とはいえ、『らき☆すた』も色々だからなー。


……というわけで『瀬戸の花嫁』の笑いを解釈してみましたが、やっぱり無粋ですね!おそまつさまでした。