ufotableは本当に『深夜アニメ式に正しくない』のか

今更ながらこんな話題に乗ってみようと思います。

ufotableは基本的に深夜アニメ式正しさを「是」としていないスタジオであるように思います。
(中略)
カリ城パロディ」や「美少女ガンアクション」を持ち込んで深夜アニメ式正しさの信奉者であるように振舞ってみせても、根本となる部分は深夜アニメ式正しさに寄りかかるまいと一生懸命がんばってしまう。
そんな書生的な生真面目さがufotableアイデンティティではないか――?

そのように仮定すると、『フタコイオルタナティブ』が全編を通して行った試みとは、原作の事前了解をどうにかして正当化しようとする努力ではなかったかと思えてきます。
つまり「フタマタ」という非人道的行為をなんとか「フタコイ」という真っ当なものにしようという試みですね(笑)。

http://d.hatena.ne.jp/t-j/20070422

記事全体を貫く「評論が同じ土壌で行われていない」という問題意識には共感するものの、「ufotable」=「書生的な生真面目さ」という根本的な部分で同意できないところがあります。具体的に問題点を挙げていくと
①『フタコイ』や『まなびストレート』をもってufotableを語るのは適切か。
引用記事では『コヨーテラグタイムショー』を「近藤社長が生んだ鬼子」として無視していますが、むしろ『フタコイ』の方が鬼子だという可能性もあるわけで。
②『フタコイ』は本当に「深夜アニメ式に正しくない」のか。
だって、双子の美少女がマシンガンを乱射したり、巨大イカが火を吹いて大暴れしたりするんですよ。そんなのお遊びだ作品の本質じゃない、という反論も考えられますが、じゃあ本質とお遊びの線引きはどこでするんだとなる。で、最終的には③につながります。
③「深夜アニメ式正しさ」とはそもそも何か。
議論の中心となる言葉だけに、しっかりとした定義が必要ではないかと思います。これは引用記事の筆者も書いていることですが。
とりあえず以上の3点が気になったところ(京アニを比較対象として持ち出す妥当性も気になるけど)。
そこで『住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー』ですよ(意味不明)。

ufotableが2003年に発表した作品。簡単にストーリィを紹介します。
主人公はごく普通の青年ですが、ある日タンポポと名乗る宇宙人の少女から新型パワードスーツ「ドッコイダー」のモニターになってほしいと頼まれ、生活苦から引き受けることに。その一方、銀河警察に囚われていた3人の宇宙犯罪人がドッコイダーに襲い掛かります。彼らの目的はドッコイダーの正体を暴くことと引き換えに無罪放免を勝ち取ること。互いの人生をかけた壮絶な戦いが始まる……
と思いきや、そうはなりません。
うっかり全員が同じアパート「コスモス荘」に入居してしまったため、敵と味方がお互いの正体を知らないまま共同生活を始めることになります。まさに「志村、後ろ後ろ!」状態。そんな『ドッコイダー』は、ゆるーい熱血アクションとちょっとだけ泣けるシナリオがとても魅力的な作品です。
別に主人公が「宇宙犯罪人と仲良くしても良いのだろうか〜」と悩むわけでもなく、そういった点では倫理的葛藤に苦しみ続けた『フタコイ』とは全く違う作風のようにも見えるでしょう。
では、どちらかがufotableらしくて、どちらかがらしくないのか。そんなことはないと僕は思います。どちらもufotableらしくて、どちらも「深夜アニメ式に正しい」。
僕は作品のテーマよりもショットの繋ぎ方とか動画の枚数とかの方がよっぽどスタジオの個性を表していると思うのですが、まあ、それは置いといて。ここで言う「深夜アニメ式正しさ」をきちんと定義することはほとんど不可能ですが、逆に「深夜アニメ式に正しくない」ための条件ならば定義可能だと思うのですよ。それを避けるようにすれば深夜アニメっぽいんじゃない?みたいな。
いくつか考えられるでしょうが、そのうちのひとつとして「戻れない一線を越えること」が挙げられるんじゃないかな、と。そして『フタコイ』も『ドッコイダー』もその一線を越えなかったという点で、どちらも「深夜アニメ式正しさ」に足を浸しています。
例えば『フタコイ』だとイカファイヤーが火球を吐いたり、『ドッコイダー』だとエーデルワイスがビームを打ったりした後に、死体を映したショットが入るともう全然違う話になってしまうわけです。「ツンデレ」みたいな萌え要素も同じで、今はツンツンされても後で仲良くなれる可能性があるから萌えることが出来るのでしょう。
そう考えると『ドッコイダー』が最終回で

「また始まるな」
「ようこそ。コスモス荘へ」

と現状維持をもってゴールとすることや、『フタコイ』で恋太郎が

「明日じゃダメか……?」

などと言って双子を抱けなかったことは象徴的だと思うのですが如何でしょう。
ufotableのような新興のスタジオだと「あんなことも出来るこんなことも出来る」と外部にアピールする意味を持って色々なテーマに手を出すのはむしろ普通なわけで、作品のテーマからスタジオ論をやるのは難しいんじゃないかな、と思った次第です。