『苺ましまろ』の日常と時間

「女子短大生と4人の小学生の日常を描いたゆるーいコメディ」
苺ましまろ』は大体こんな風にして紹介されているようです。しかしその実態は、日常を装ったファンタジィ。あと「ゆるーい」って何だ超テンション高いじゃないかこの人たち。え、え、え、どういうことだ責任者出て来い。
みたいな話をつれづれと書いてみようと思います。

この『苺ましまろ』を特徴付けているのは「決定的な出来事が起こらない」という点にあると言えるでしょう。ここで言う「決定的な出来事」とは30分1話の枠を超え、次の話、時には最終回まで影響を与えるような出来事のことです。
例えば美羽のいたずらに登場人物の誰かが怒ることはあっても、怒鳴る・ひっぱたく・無視するなどの具体的なアクションは大胆に省略され、残るのは「怒った」という後から確認することができない感情だけ。言い換えるなら、『苺ましまろ』では取り返しのつかない「事実」を省略することで、物語の時間を常に巻き戻すことが可能な状態に保たれているのです。
そこに未来への予感はなく、永遠に今日が続くようでもあります。「未来への予感」は「伏線」と言い換えても良いでしょう。
大体の物語には「伏線」というものがありますが、現実世界で「あれは〜の伏線だったのか」と思うことなんてほとんどありませんよね。そういう意味で、伏線とは実に物語的なものだと言えます。そんな伏線をばっさりと切り捨ててしまったところに『苺ましまろ』の「日常らしさ」があるのではないかな、と。
「日常」が行為の意味を自覚しない時間(ルーティンワーク)のことを指すとすれば、伏線がなく未来の存在を予感させない『苺ましまろ』に描かれる世界もまた、意味がないように見せかけることから(意味とは常に未来から過去へ向かって問われるものだから)「日常」であると言えるのです。