「祈りの物語」としての『鋼の錬金術師』

「つまり錬金術の基本は『等価交換』!!
何かを得ようとするならそれと同等の代価が必要だってことだ」
―第1巻より―

興味深いタイトルのコラムを見つけました。
大和総研/コラム:経済再生は錬金術に学べ!
なんというか、みんなハガレン好きすぎるだろ、という感じです。おそらくこの作品がもう少しマイナだったら、知ったかぶりをして「何かを得るためには同等の代価が必要なんだよ。ふっ」みたいな人が大量に出没したことでしょう。ああメジャな作品でよかった。でも等価交換と言ったって交換にかかるエネルギィはどこから(以下略)。
そんなわけで、みんな大好き『鋼の錬金術師』最新巻を読んだのであります。

鋼の錬金術師(15) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(15) (ガンガンコミックス)

物語に陰を落とし続ける「イシュヴァール殲滅戦」。この巻ではその戦いを通して作者なりの「戦場のリアリティ」を表現しようとしているようです。ただ、この巻に限った話ではありませんが、作者は戦いの責任を特定のキャラクタに押し付けるようなことはしません。誰もわるくない。けれど、世界は悲惨である。それがこの物語における基本的な世界観です。そこには「正しさ」という概念を排除しようとする、明確な意思が読み取れます。
しかし、このような相対化は単なる技法であり、『ハガレン』の価値は「正しさ」を排除したその先にこそ存在しています。
物語世界もキャラクタの主義主張も、僕たちに倫理的な正しさを教えてはくれません。しかし、それによって逆に、作者の倫理的判断というものが浮かび上がってくる。僕はその判断にこそ価値があると考えています。
ブラッドレイ大総統も、爆弾魔のキンブリーでさえも単純な悪人としては描かれません。それなのに戦場は悲惨なものであり、世界は悲しみにあふれたものとして描かる。いったい何を悲惨だと、悲しいと感じているのか。この矛盾にこそ『ハガレン』の世界を単なるニヒリズムとして切り捨てられない魅力があるのではないでしょうか。
作者の価値判断は「正しさ」に頼らないからこそ「作者の判断」として価値を得ます。しかし、それは暗闇の中を歩くことにも似て、ほとんど不可能に近いことでもあるのでしょう。だからこそ主要な登場人物たちが自らを「正しい」と考えるとき、どうしても「正しくありますように」という「祈り」に似た思いが紛れ込むのです。
僕は『鋼の錬金術師』という物語を、「正しさ」への祈りの物語として読んでいます。

「ああ あの手を合わせる練成のポーズ…
何かに似ていると思ったら……
まるで神への祈りじゃないか」
―第14巻より―