『Kanon』に見る「家族」の終焉

昨日実家から京都へ戻ってきたのですが、誰もいないアパートの部屋が広く感じられた……何てこともなく(事実狭い)、割と快適に過ごしています。家族と暮らすメリットというのもある、けれど、ひとりで暮らす人生がつまらないというのは偏見だ、と僕は思うのですよ。
いきなり自分語りから始まりましたが、つまり現代では「家族」を無条件で肯定するような見方はリアリティを失いつつある、という話です。「家族」がユートピアであるための条件はあまりに多く、もし「家族」がユートピアであると思うのであれば、それは誰かの努力によって必死に支えられているか、あるいは単なる思い込みじゃないの?と。
家族や絆をテーマとして取り上げることが多い」とwikipediaに書かれている麻枝准、そしてkey作品においてもそれは例外ではありません。いや、むしろ家族を肯定しようとするkey作品においてこそ、家族という概念は変質せざるを得ないのです。この逆説が面白いと思うのは僕だけでしょうか。
そこで今日は『Kanon』における家族関係を例に、「家族」の終焉、そして「家族」の対抗概念としての「親密圏」という思想について考えてみることにします。

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さて、「家族」について考えるのならば、まず最初に「家族とは何か」という厄介な問題に取り組む必要があります。3世代同居の家族があれば、未婚の同棲カップルだって家族です。かといって「俺が家族だと言ったら家族なの!」と「家族」の定義を無限定に広げるのならば「人類みな家族」みたいな収拾のつかない状況に陥ってしまいます。
そこでストッパーとして機能していたのが、血縁関係、そして戸籍や婚姻届など公権力の存在でしたが、現代ではそれらのリアリティは失われつつあります。『Kanon』に目を向けてみると、水瀬家の「家族」と見なされているのは秋子さん、名雪、祐一、真琴、そしてあゆの5人(ぴろを入れると5人と1匹)。そのうち血縁関係にあるのは秋子さんと名雪のみです。『家族計画』『AIR』などにおいても、血縁関係、公権力による承認は重要な問題とはされていません。それは何故か?
血縁関係や公権力のフィクション性に人々が目を向けるようになったから、というのもあるでしょうが、血縁関係や公権力の承認による「家族」概念は「子供をつくらないを目的としない、または未婚の性交渉」を排除する性質があるためである、と僕は考えています。認めると自己否定になってしまいますからね。もちろんそれは現実にそぐわない、ましてエロゲとなればこの「家族」概念は絶対に認められません。それによって「家族」という概念の変質は必然的なものとなるのです。
もうひとつ興味深い事実として、key作品における父親の不在が挙げられると思います。戦前までの家制度では家父長制が大きなウェイトを占めていましたが、そのような保護者・子女の関係もやはりリアリティを失っています。それによって「父」親を家族に入れる必然性もなくなっている、ということが『Kanon』および『AIR』に父親が登場しない理由ではないでしょうか。必然性がなければ、おっさんよりも美人の母親を出したいと思うのが人情でしょう(酷いな)?
このようにして「家族」という概念は血縁関係、公権力、家父長制などの諸概念から切り離され、自らを定義してくれるものを失いました。では「家族」とは何なのでしょうか?「そんなものは幻想さ」で済まそうものなら「ポストモダン野郎め」と言われそうなので(酷い話だ)、家族に代わる概念が必要になります。で、その候補として「親密圏」という思想を挙げておきたいと思います。
「親密圏」は「公共圏」と対比されることが多いのですが、主な特徴として
①公共圏は多くの人に共通の関心で成り立つが、親密圏は具体的な誰かへの関心で成り立つ(逆に言えば、関心さえあれば血縁は問われない)。
②公共圏とは異なるコミュニケーションのあり方が可能になる空間である(公共圏に適応できなかった者にとって癒しの場となりうる)。
③「親密性」が重要なファクタとなる。
という3点が挙げられるでしょう。『Kanon』に関しては気持ち悪いくらい当てはまる上に、非常にわかりやすい。
けれど、単なる「親密な関係」から「親密圏」への飛躍はどのようにして行われるの?とか、愛がなくなれば親密圏は解消されるの?とか、親密圏内の暴力を防ぐメカニズムがないじゃないかとか色々な疑問・問題も存在します。
そのため、散々引っ張っておいてアレですが、「親密圏」の概念でさえも「家族」の代わりとはなりません。それは「親密圏」という概念がまだ理論的に成熟していないということ、それと、やっぱり僕たちの家族概念は少なからず血縁関係や公権力に頼っているということを意味しています。
それなのになぜ『Kanon』の家族関係は「親密圏」で説明できてしまうのか?そこに『Kanon』が何を語らなかったのかを理解する鍵があり、作品を理解するためにはそれを知っておく必要があると僕は考えます。語らないことは、時として語る以上に雄弁なのですから。


追記
こぐにと。 cognit. - 美少女ゲーム年代記」で指摘を頂きましたので、それについて少し。
指摘の内容についてはほとんど同意できます。「『家族計画』においては「血縁関係、公権力による承認は重要な問題とはされていません」というのは拙かったですね。
それでもあえて弁解させてもらうなら、僕は父親と父性の両者をイコールだとは考えていません。ただ、エロゲにおいて母親が父性(特に強権性)を象徴していた例を寡聞にして知らないのと、逆の例はそこそこ知っていることから(『世界ノ全テ』など)、エロゲにおいて父親が父性を象徴していると考えるのはそれほど的外れではないと考えました。ゲームシステムが父性の役割を果たしているという考えも同意できるのですが、それはゲームシステム以外に父性が存在することを否定するというわけでもなく、置いといて良いのではないかと。
それと、倉田家や美坂家から、あきらかに反「家族」的な要素を見つけることは困難です。しかし、だから親密圏では説明できないというわけではありません。むしろ普通の「家族」を分析することに親密圏の思想の本領があるわけで、倉田家も美坂家も「親密圏で説明される可能性が高い」くらいに考えて良いと思います。また、「家族」の概念が変質したからといって、もはや「家族」が必要とされなくなったというのは違うのではないかと。この世で一番固いものは人間の頭ではないでしょうか。
最後に「ところで家族を無条件で肯定していた時代なんてあったんですかね。」ですが、現代もわりとそんな感じです。「家庭崩壊」なんて言葉があるのも、肯定されうるものでなければ家庭じゃない、という理屈ではないでしょうか。


追記

「結局全部エロゲの都合。しかも、擬似家族を讃えるという価値観自体、血縁的家族の圧倒的価値を認めている証」
id:retlaさんのブクマコメントより

「擬似家族を〜」の部分は同感ですが、血縁的家族の「価値」がどこに存在しているのかが問題であると思います。両者は矛盾するものとして描かれているわけではなく、どちらかと言えば擬似家族の側が血縁的家族の「価値」を取り込む方向へ進んでいるのではないでしょうか。現実もエロゲも。
「家族」の変質を相対的なものとして捉えるのは、ちょっと無理があるのではないかと。