エロゲからアニメに継承されたもの

「この曲の名前ご存知ですか?」
「いや。よく聴く曲だけど……」
「カノンです。パッヘルベルのカノン」
「カノン?」
「同じ旋律を何度も繰り返しながら、少しずつ豊かに、美しく和音が響きあうようになっていくんです。そんな風に、一見違いのない毎日を送りながら、でも、少しずつ変わっていけたらよいですよね……」
京アニ版『Kanon』第14話より−

祐一と佐祐理さんが喫茶店で会話をするシーンから抜粋。タイトルについて言及する、おそらく唯一の例でしょう。原作ではついに語られなかったKanonの意味、正典からカノン砲までいろいろ考えられる中で、パッヘルベルのカノンを選んだことに特別な意味を見出したいと思うのは僕だけでしょうか。
タイトルへの自己言及、という点では作品は違いますが以下の台詞も非常に印象深いものでした。

「人生はゲームのようにリセット出来ないと言うけれど、本当にそうだろうか。つまずいても、ダ・カーポのように、また最初からやり直せばいい。俺はそう信じたい。それは、決してゼロからの出発ではないはずだから」
−アニメ版『D.C.〜ダ・カーポ〜』最終話より−

普通に良いことを言っています。しかし、『D.C.〜ダ・カーポ〜』を単なるアニメではなく、「マルチシナリオを採用していたゲームが原作の」アニメとして見直したとき、新しい意味が発見することが可能となるでしょう。
それはつまり、完結した物語をリセットする「繰り返し」の容認であり、繰り返すほどに面白くなるというマルチシナリオの理想の表明です。アニメ化によってマルチシナリオのシステムは抜き取られましたが、台詞という形で作品の中に組み込まれた、と考えると面白い。
同様の条件を持った京アニ版Kanonの台詞もまた、同じように解釈することが可能となります。「同じ旋律を何度も繰り返しながら、少しずつ豊かに、美しく和音が響きあうようになっていくんです」というのは、ある意味マルチシナリオの理想ではあるわけで。
その理想をゲーム版Kanonが達成できていたかはともかく、上記の2つの台詞を「一本道にされたマルチシナリオの名残」として読むならば、僕は改めて『京アニ版Kanon』そして『アニメ版D.C.〜ダ・カーポ〜』という2つ作品のすごさを感じずにはいられません。マルチシナリオという、アニメでは実現できなかったシステムを台詞という形で、しかも自然な形で組み込んでしまったのですから。
創造的なメディアミックスの形として、高く評価したいと思います。えこひいきですが。

Kanon 2 [DVD]

Kanon 2 [DVD]

D.C.~ダ・カーポ~ DVD-BOX IV

D.C.~ダ・カーポ~ DVD-BOX IV