解放と喪失の『ef - the first tale.』

「やり直す、なんて口で言うのは誰にだって出来ます。
新藤さん、あなたはいつまでも同じところで足踏みしてるんですよ。
いつか、誰かが手を引いてどこかへ連れて行ってくれることを望みながら。
(中略)
甘えてるんじゃないわよ、お譲ちゃん」

文意から外れることを承知で上の文章を引用したのには理由があります。
この『ef - a fairy tale of the two. 』という作品は、僕たちをまるで子供の手を引くように物語の中へエスコートしてくれるような作品ではありません。「オタク」や「マニア」と呼ばれる人々はどの分野でもそうなのでしょうが、表面的な新しさは求めていても、本当に革新的な作品に対しては拒否反応を示すものです。
刺激的な話が読みたい、今まで見たこともない話を知りたい、「なんて口で言うのは誰にだって出来ます」。けれど、本当は慣れ親しんだ読み方を守り続けて「いつまでも同じところで足踏みしてるんですよ」。それに対する反発もあるので、僕は『ef』をひいきします。
受動的に目を通すだけでは『ef』の面白さはわからない。行間を読み、構造の意図を汲み取り、シナリオの設計思想に思いをめぐらせること。『ef』はそれに耐えうるポテンシャルを持った、『CROSS†CHANNEL』などの傑作と同様に「新しい」作品であると僕は思います。
以下が、僕なりに『ef』を解釈した結果です。

1.絶対性の喪失
『BugBug攻略idol Vol.14』に掲載された『ef』スタッフインタビュー

『ef』のテーマは「対」であり、対でないものは無いほど、全てが表裏一体らしい。

という趣旨の記述があるそうです(原文未確認)。前編である『first tale.』だけを見ても、一読しただけでもわかるくらい、確かに全てが「対」になっています。『first tale.』に収録されているのは、全4章の内の第1・2章。それぞれの物語について、ストーリーの大きな柱となる『夢』と『恋愛』という2つの観点から考察してみたいと思います。
まず『夢』について。それぞれの章のスタート時点では、第1章の主人公はプロの少女漫画家として「叶えた夢に疑問を持っている」。ヒロインは「まだ夢を見つけていない」。第2章の主人公は「夢を叶えよう」として、ヒロインは「夢を諦めかけている」。以上のように、夢に対する姿勢は物語の開始時点で「主人公とヒロイン」、「主人公同士、ヒロイン同士」において対照的なものとなっています。
では、『恋愛』についてはどうでしょうか。第1章では三角関係が、第2章ではその三角関係の結果、失恋した女の子が立ち直るまでの話が描かれています。第1章が恋愛の「ゴール」へ向かう物語だとすると、第2章は恋愛の「スタートライン」に立つまでの物語。これもやはり対照的ですね。
それなのに、第2章のエンディングでは登場人物の「全員が、同じ場所に」集まって、幸せな結末を迎えています。対照的な位置からスタートした物語が、最後には同じ場所に辿りつく。このことから、各シナリオのベクトルは一見すると丁度真逆を向いているように感じられます。しかし実際はそうではありません。描かれているのは共通して「絶対的な何か」からの解放、あるいは喪失なのです。
物語の登場人物たちは、全員が物語のスタート時点で何かに囚われています。それは仕事だったり、夢だったり、過去の恋だったりと色々ですが、物語が進むにつれて「大切なものはひとつではない」と気づく。この話は、主人公たちの中で「絶対的な何か」が相対化され、「他の大事な何か」との矛盾を許容できるようになるまでの成長物語に他なりません。
この相対化の過程を通してエロゲの構造が内包するさまざまな特権性もまた相対化されていきます。これについては次章で論じてみましょう。


2.特権性の剥奪
えっとですね、『ef』の感想を読んでいて多かったのが「寝取られが嫌だ」という意見。つまり、第1章の三角関係で負けた女の子が第2章で他の男と付き合うようになるのが気に入らないみたいです。
現実だったら馬鹿馬鹿しくてしょうがないこの意見がエロゲにおいてある程度の市民権を得ている理由には、複数回プレイすることを前提としたエロゲのシステムが関係しているのではないかと思います。クリアしたあと、世界はリセットされ再び全てのヒロインに対して平等なチャンスが与えられる。今回は結ばれなかったかもしれないが、次は結ばれるかもしれない。そんな理由で、どのような重い選択も別れも「次にプレイするまで」の期限付きで選ばれます。俺はまだ完全に別れていない、だから他人は手を出すなの論理です。
このシステムは、どのようなヒロインとも結ばれうるという「主人公の特権性」によって成立しています。だから、もしやり直しが効かなければ、主人公が万能でなくそれを埋めるために「特定の誰か」が必要なら、このシステムは成立しません。
では、『ef』はどうなのか?第2章でのセリフを引用します。

「もしも、広野と君が付き合っていても、いつか宮村が現れて君から広野を奪っていったと思う」

このセリフからは「主人公の特権性」が剥奪されたことを自覚した上でシナリオが書かれていることを示唆しています。
また、第2章という「三角関係の清算」を柱としたシナリオが生まれたのも、この特権性の喪失と無関係ではありません。三角関係で誰かを傷つけても次のプレイで取り返せばよい。そのような、問題を次に回すことの出来る特権性が失われたため、失恋という恋愛における負の側面も主人公は引き受けなくてはいけなくなった。その結果として第2章が存在しているのだと言えるでしょう。


3.群像劇という手法について
『ef』がなぜ群像劇になったかについては、御影氏のHPの記述が正確に語ってくれています。以下は引用文です。

 視点が複数存在する場合は、三人称記述のほうが読み易いというのは真実だと思います。また、書き手だけでなく、読み手に関しても、最近は視点変更をともなった章形式の本(ライノベなど)が増えてきているのと、主人公をあくまでも一個のキャラとして捉える傾向が強いため、時流としても問題はないと思われます。
 結論としてシナリオに限りは、他分野での流行りが半年〜1年ほど経過してから露出することの多いPCゲーム業界の作品に関して、これからこの方法論が展開されていくのではと予想はします(主流になれるかどうかは分かりませんが)
(中略)
 最後に、作り手側のポイントとして。三人称を最大限に生かす“企画”を考えるなら、つまり複数のヒロインに対し、複数の主人公を用意するということなので。これは男性キャラの立ち絵・ボイスの必然性が強くなる……つまり通常の2倍の作業量が発生することが最大の考慮点でしょうね。

1・2で挙げた理由から群像劇になるのは必然的だったと言えるでしょうが、その背景として上に引用した「時流」と「作業量」の問題を共にクリアすることができたという点(「時流」は書いてある通り。「作業量」はminoriだから)があることを指摘しておきます。


うーん。まだまだ書きたりない気もしますが、今日はこのくらいにしておきます。何か思いついたら書き足すことにして、もう寝ます。
関連記事へのブックマーク