水夏

風邪でひたすら寝ていると「もしかして、俺、ヒマなんじゃないの?」と勘違いして遊びに行きたくなるので、ベッドの中でこんなの聴きました。

ドラマCD 水夏~SUIKA~第2章-白河さやか-

ドラマCD 水夏~SUIKA~第2章-白河さやか-

僕は「水夏SUIKA〜」というゲームに対して「AIR」と同じくらい高い評価を与えています。その理由は、確かに「AIR」ほどの重厚さは感じませんが、「水夏」にはそれを補って余りあるほどの切れ味を感じているためです。説明の少なさ、突き放した終わり方など、読み手を選びますが、それさえも「水夏」の切れ味に対する証左でしかありません。ほとんどの芸術家は生きている間に評価されないのと同じようなものでしょうか。
で、せっかくなのでドラマCDにも手を出してみたのですが……これが面白くない。
ゲーム版を遊んでいるときに感じた「シナリオのツボ」は大体抑えていると思います。特に、重要人物の死に際の描写なんてゲームよりも優れていると感じたくらいです。
それなのに、何故かつまらない。
理由を考えてみると、これまで僕が考えていた「シナリオのツボ」がそもそも間違っていたと考えざるをえないのでしょう。


さて、この「水夏」ではさまざまな人間関係の形が描かれています。それは、恋人同士の美しいものであったり、奇形的なものであったり、親子の関係であったりとさまざまですが、ここではそれら「関係の描き方」について少し考えて見ましょう。
全体に共通する大まかな流れとして「Aパート」⇒「Aパートに内在していた相互不理解の発現(Bパート)」⇒「和解」が存在してるのですが、ここで注目するべきなのは、Bパートにおいて発言する相互不理解がAパートにおいても存在していながら、Aパートでは一見正常なコミュニケーションが成り立っているということです。つまり、後半で明らかになる「真の関係」とは別に、前半でも「偽の関係」が示されています。
ある意味ではギャルゲーにおいて一般的な手法なのですが、それが顕著な形で現れたのが「AIR」と「水夏」です。「AIR」においては後半での視点変更(人間から非人間)により、Aパートでの対人関係(偽)とBパートでの自己と内面の関係(真)の構図を提示しました。
では、「水夏」のAパートにおいて「関係」を成り立たせているものとは何か、と考えてみると、それは「オタク的文脈」なのではないでしょうか。
例えば、第1章でのヒロインを見てみると「巫女さん」「幼馴染」「漫画好き」などなどオタクに好まれる要素が詰め込まれ、またそれらの要素にあった挿話が詰め込まれています。
そして前半の優しさに対比させるように、後半では厳しい現実が。
このことから、「水夏」が「AIR」をギャルゲー的文脈で読み直したものである、と言うことが可能となります。しかし、これによって単に水夏が「オタクに媚びている」と考えるのは正しくないでしょう。
前半にこれでもか、というくらい詰め込んだ「オタク的要素」は、そのどれもが後半に、ヒロインたちが意図的に作り出した「虚像」であることが判明します。そして、多くのものを失ったにも関わらず、清々しそうな主人公たち。
これは、記号化され、描き方が一面的であることを強要された「ギャルゲー的文脈」への反抗ではないか、と思った次第です。


で、なんでドラマCDがつまらなかったのかといえば、いいやつは最初からいいやつで、悪いやつは最初から悪いやつなのがバレバレだったからです。あとは「とても言葉では表現できません」という言葉の陳腐さ、かも。名作と呼ばれる作品は、容易に他の媒体へ移させない力を持っています。
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