水夏
風邪でひたすら寝ていると「もしかして、俺、ヒマなんじゃないの?」と勘違いして遊びに行きたくなるので、ベッドの中でこんなの聴きました。
- アーティスト: ドラマ,鳥居花音,山田真一,草柳順子,ひと美,歌織,春野日和,掛川裕彦
- 出版社/メーカー: フロンティアワークス
- 発売日: 2002/10/25
- メディア: CD
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で、せっかくなのでドラマCDにも手を出してみたのですが……これが面白くない。
ゲーム版を遊んでいるときに感じた「シナリオのツボ」は大体抑えていると思います。特に、重要人物の死に際の描写なんてゲームよりも優れていると感じたくらいです。
それなのに、何故かつまらない。
理由を考えてみると、これまで僕が考えていた「シナリオのツボ」がそもそも間違っていたと考えざるをえないのでしょう。
さて、この「水夏」ではさまざまな人間関係の形が描かれています。それは、恋人同士の美しいものであったり、奇形的なものであったり、親子の関係であったりとさまざまですが、ここではそれら「関係の描き方」について少し考えて見ましょう。
全体に共通する大まかな流れとして「Aパート」⇒「Aパートに内在していた相互不理解の発現(Bパート)」⇒「和解」が存在してるのですが、ここで注目するべきなのは、Bパートにおいて発言する相互不理解がAパートにおいても存在していながら、Aパートでは一見正常なコミュニケーションが成り立っているということです。つまり、後半で明らかになる「真の関係」とは別に、前半でも「偽の関係」が示されています。
ある意味ではギャルゲーにおいて一般的な手法なのですが、それが顕著な形で現れたのが「AIR」と「水夏」です。「AIR」においては後半での視点変更(人間から非人間)により、Aパートでの対人関係(偽)とBパートでの自己と内面の関係(真)の構図を提示しました。
では、「水夏」のAパートにおいて「関係」を成り立たせているものとは何か、と考えてみると、それは「オタク的文脈」なのではないでしょうか。
例えば、第1章でのヒロインを見てみると「巫女さん」「幼馴染」「漫画好き」などなどオタクに好まれる要素が詰め込まれ、またそれらの要素にあった挿話が詰め込まれています。
そして前半の優しさに対比させるように、後半では厳しい現実が。
このことから、「水夏」が「AIR」をギャルゲー的文脈で読み直したものである、と言うことが可能となります。しかし、これによって単に水夏が「オタクに媚びている」と考えるのは正しくないでしょう。
前半にこれでもか、というくらい詰め込んだ「オタク的要素」は、そのどれもが後半に、ヒロインたちが意図的に作り出した「虚像」であることが判明します。そして、多くのものを失ったにも関わらず、清々しそうな主人公たち。
これは、記号化され、描き方が一面的であることを強要された「ギャルゲー的文脈」への反抗ではないか、と思った次第です。
で、なんでドラマCDがつまらなかったのかといえば、いいやつは最初からいいやつで、悪いやつは最初から悪いやつなのがバレバレだったからです。あとは「とても言葉では表現できません」という言葉の陳腐さ、かも。名作と呼ばれる作品は、容易に他の媒体へ移させない力を持っています。
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