うれしいブクマコメントとか、作家の話

「考えさせられる」というコメントが一番うれしいという話。
自分で言うのもアレですが、気合を入れて考察的な記事を書くとき、首尾一貫性だとか論理性なんかを保とうとします。そんなに突飛なことは書いてないはず(たぶん)。
ありがたいことにその無難な記事を評価して、ブクマしてくれる人がいる。無言の同意(勝手な判断ですが)だったり、「同感です」という積極的な肯定だったりと色々ですが、評価されると素直にうれしいものです。
ただ、自分が書いた「AはBである」という記事に肯定的なブクマコメントを残した直後に「AはBではない」という記事にもやっぱりブクマしている人がいて、そういうのを見てはじめて自分の記事が失敗だったことに気付く、ということも時々あります。内容の是非はともかく、記憶に残るような、もうちょっと上手い書き方があったんじゃないの?みたいな。そういうことを考え始めると、何を目指して記事を書くかという根本的な部分がわからなくなってきます。
そんなわけで森博嗣先生の言葉が気になる今日この頃。

万人が納得する当たり前の意見を書くことよりも、「こいつの言っていることは、ちょっと変だ。しかし気になるから、また読んでみよう」と思わせる文章、だいたいは納得できるものの、一部だけ、「そうかな?」と反論したくなる文章、読んでいるだけで刺激的で、これまでになかった思考に触れられる文章、そんな「読みもの」こそがプロの仕事である。訴えたい意見、正しい見識、知識の披露が主目的ではない。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/04/post_1119.php

以前読んでいたブログだと「分裂勘違い君劇場」がプロっぽくて好きなんですが最近何をしているのでしょうか、という話はさておき。
正しさの中に少しだけ間違ったことを混ぜる。それを見た人が違和感を覚え、なぜ違和感を覚えたのかを考える。結果として単純に「なるほど」と納得したときよりも深く理解出来る、ということがあります。人に正しさを伝えること、人に間違いを考えさせることはコインの表と裏。対照的に見えて、実は接している。導くのは結論ではなく、思考それ自体でありたいものです。
納得させるよりも、立ち止まらせたい。
そうは言っても、プライドが邪魔をして書けないですよね、そういう記事は。

# 2007年05月01日 mozy mozy プロだなあ。はてなブックマークで一番多い文章は、「私ってこんなに頭がいい人なんです」というものだとおもう。

はてなブックマーク - MORI LOG ACADEMY: 何のために書くのか

うんうんと頷きつつも、森先生のスタンスが作家として一般的なのかわからなかったりします。

なお、佐藤春夫の小説観は《小説の使命は描写という方法によって作中人物の性格を明かにし作中の時代の文明批評をするにある》というもの。したがって、今日の多くの私小説は文明批評が感ぜられず狭隘であり、作家は隠居然としているという結論となる。
さて、この「文明批評」が近代文学では重要なのである。たとえば、作家は地道に小説を書き継ぎ、その多くの作品=仕事をみて現在ならそれがその作家の「人生」とみるだろう。頑張ったな、と。ところが、近代文学ではそれを「人生」とは謂わないのであって、「人生」とは作品の任意の切断面において「文明批評」がなされてなければならないのである。

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作家は大上段に構えて高説を述べるものだという時代もあったのですよ。今でもそう考えている人、たくさんいますしね。
何の話をしているのかわからなくなってきましたが、要するに正しいことを書いて褒められるより、ちょっとくらい間違ったことを書いて「うーん」と唸られる方が良いのかもしれないけれど、しょうもないプライドがあってままならねーです、という話でした。