いわゆる「鎖国」について

以前、ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』を本屋で見かけたときは、上手いこと言うなぁと感心したものでした。

「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)

「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)

ところで最近では「鎖国」という言葉が、江戸時代の実態を表す言葉として適切なものではなく、いわゆる「四つの口」(対馬・長崎・薩摩・蝦夷地)を通した、それなりに豊かな交易関係を築いていたことは広く知られるようになってきました。中高レベルの日本史教科書でも、近年のものであればこの辺の事情にはだいたい言及しているのではないでしょうか。先月刊行された田中優子『グローバリゼーションの中の江戸』も、啓蒙的な本ではあるのですが、上記の意味であまりインパクトはないかもしれません。むろん、オランダとの「南蛮貿易」がその言葉からイメージされるのと異なり、中国やインドなどアジアの物産を東インド会社が持ち込む中継ぎ貿易がその多くを占めていたという指摘は、それもまあ有名な話ではあるのですが、学校教科書のレベルとは一線を画すと思います。「アジアの中の江戸時代」という視座そのものは以前からあって、たとえば朝尾直弘が初期の例として挙げられるでしょう(「鎖国制の成立」1970年)。朝尾の展望では、最終的に明清交替へとたどり着く東アジアの変動が日本に新しい国際秩序認識の構築を迫り、「文化の国」中国に代わって「弓箭きひしき」武威の国である日本を世界の中心においた秩序が対内的にも対外的にも貫徹されていく、というわけです(いわゆる日本型華夷意識)。

ヨーロッパ人が来るまでは、それが日本にとっての世界であった東アジア世界に、一定の国際的秩序をもって組み込まれていたのである。東アジア世界を媒介としないで、ヨーロッパと日本の出会いを直接にとらえようとすると、鎖国を総体として、しかも具体性をもって把握するうえで、大きな困難が生じるように思われる。
――朝尾前掲――

朝尾はこうした日本型華夷意識をもって近代日本の軍国主義も説明しようとするのですが、田中本はそれをひっくり返して、いやむしろ江戸時代は朝鮮出兵をやらかした秀吉時代とも、西洋文化に塗りつぶされた近代とも違って、他国の文化を尊重しつつ巧みに日本化した時代であったと力説します。まあそういう風にも言えるかもしれませんね。
とはいえ、この時代の日本を外の視点から理解するうえで、アジアだけでなくヨーロッパ、殊にオランダ東インド会社の存在は非常に重要です。この奇妙な組織についての研究で、読みやすく人に薦めやすいものは少なく、羽田正『東インド会社とアジアの海』はその貴重な例外。日本の話も結構出てて、住むところを出島に限定されるわ、幕府に国際情勢を教えるよう求められるわ、はるばる江戸まで挨拶に行くよう強制されるわ、で不自由な境遇にあった東インド会社の人々がなぜかくも従順であったかについての理解が得られます(要するに、日本との貿易がいかに儲かったかという話なんですけど)。

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

こうして江戸時代は「鎖国」していなかったことがわかってくると、ではどうしてそう思われていたのかが問題になってきます。たとえばペリー来航以後の時期には鎖国を「祖法(家康以来の決まりごと)」と呼ぶ例が頻繁にみられるわけですが、これはなぜなのか。朝尾直弘は「いわゆる鎖国の行われた当時、それを実行した幕府当局者はもとより、大名も一般人民も、だれもこれを鎖国と考えた者はなく、鎖国と表現したものはいなかった」(『日本の歴史17 鎖国』1975年)と述べており、それが比較的新しい、政策批判のニュアンスを帯びた語だということは気づいているのですが、交易を朝鮮、琉球、中国、オランダに限定する「鎖国」が「祖法」であることまでは疑いません(つまり、鎖国とは交易の遮断ではなかった、と指摘しているにすぎない)。この問題を考える上で重要なのは、藤田覚による天保期を題材とした一連の研究でしょう(特に「鎖国祖法観の形成過程」1992年、「文化四年の「開国」論」2000年)。
近世後期政治史と対外関係

近世後期政治史と対外関係

朝尾の見解とは対照的に、藤田は「(ポルトガルなど)特定の国の排除は規定しても、通信・通商の国を規定したことはない」と指摘。「特定四ヵ国への明確な限定は、寛永鎖国令からそのまま導かれるのではなく、対外的関係の長期にわたる安定とその動揺を経て確立したのである」。
鎖国」の形成において重要な意味をもったのは、ペリー来航以前の18世紀末から何度も日本に現れたロシア船の存在と、それに対する松平定信の対応です。定信がロシア使節ラクスマンに渡した諭書(さとししょ)でようやく、通信・通商はすでに定められた国(朝鮮・琉球・中国・オランダ)の他は認めないのが「いにしへよりの国法」であるという言葉が出てくるわけです。ここで定信が「いにしへよりの国法」と表現したことには、ある明確な狙いがありました。それは
1.厳重な外国船取締りの存在を示すことでロシアをけん制 
2.貿易を拒絶する国法を示すことで今後の交渉を有利に運ぶ 
3.単にロシアを拒絶するのではなく、「礼と法」に乗っ取った対処をすることを示すため、法を創出
このような狙いをもった、戦略的振る舞いだったわけです。
しかし、こうした定信の狙いはその後急速に忘れ去られ、「祖法」の存在だけが大きくなっていきます。ラクスマンに続いて来航したレザノフに対しても規定の四国以外と通商を結ぶのは「祖宗之法」に禁止されているという回答をしたり(「魯西亜使節処置議」1804年)、「鎖国」維持を目的とした海防掛を設置したり(1845年)、といった経緯によって、鎖国はまさに「祖法」として定着していきました。
こういうのも「創られた伝統」というのですかね。