『キラ☆キラ』論(2)―批判精神の行方

キラ☆キラ

キラ☆キラ

前回の記事を書いた後、何でこう麻枝准のシナリオはいけ好かないのだろう、ということを考えていた。もちろんそれは主観的な印象でしかないのだが、敗北が個人の敗北としてではなく、その個人を含めた世界全体の敗北として捉えられるあたりに原因があるのかもしれない。ちょうど戦後のマルクス主義者が革命の挫折を「マルクス主義」の敗北ではなく「大衆」の敗北であると考えたように。ゆえに、敗北からの立ち直りも、個人ではなく世界そのものの立ち直りとして描かれることになる。
逆に『キラ☆キラ』の好ましいところは、世界の敗北=悲劇化を拒絶しようとする意志に満ちている点にある。

「俺がシド・ヴィシャスって大っ嫌いなのは知ってるだろ」
「ああ」
「何でだろうって考えて、最近わかったんだ」
「ん、なんだったんだ?」
「あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。……悲しくなるように自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな」
(中略)
「何でもかんでも物語仕立てにしやがって。そんなにみんな、ストーリーが好きなのか。俺は断然否定するね。ドラマなんか、くだらないよ」
――椎野きらり編「chapter4」――

しかし、このように言うだけで物語が物語であることをやめられるわけではない。むしろ非生産的な反復=スペクタクルを自覚すればそれだけで生産的な反復になれるという幻想こそ、「自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔」する「ドラマ」に他ならない。むろん、瀬戸口氏はそのことに気付いている。

「全てを理解しあえなければ、一緒に楽しくやっていけないとしたら、それはとても寂しいことだよね。でも、そんなことはないじゃん。理解なんか出来なくったって、あたしたち、仲良しになれるんだもんっ」
――石動千絵編「chapter3」――

当為(いかにあるか)ではなく作為(どうするか)こそが重視される。「生きるって素晴らしい」「人は互いに分り合える」といった類いの発想は退けられなくてはならない。そのような、あらゆる状況において妥当する命題が存在するのなら、主体の行為とは無関係に存在するような理想が存在するのであれば、生きることはその理想に対する「答え合わせ」でしかないだろうし、敗北というものもありえないだろう。
かつて小林秀雄志賀直哉を評してこう述べた。

しかるに、志賀直哉氏の問題は、言わば ウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない。行為の獲得だ。氏の歌ったものは常に現在であり、予兆であって、少なくとも本質的な意味では追憶であった例はないのである。
――小林秀雄志賀直哉─世の若く新しい人々へ─」――

この評価はおそらく、『キラ☆キラ』にもかなりの部分で当てはまるだろう。この物語に登場する人々は、自らの好き嫌いの感情を素直に表白する。あらかじめ決められた答えに向かっていくのではなく、感情に従いながら現在形の行為を積み重ねていくのである。
しかし、その意図を完全に貫けているかといえば、そうでもない。ここに文体論の欠如、という前にも述べた問題が関係してくるのだが、通俗的な悲劇として受け取られることを回避するような文体を瀬戸口氏が試みているわけではない(逆に、麻枝准のシナリオは文体上の試みによってかなり救われていると思う)。「ドラマ」を否定しながら、「ドラマ」以外の何かになることもできないというジレンマ。ゆえに、最終的にはそのドラマ性を「自覚」するだけで生産的になれるという「煽り」へと後退していくことになる。

「この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて」
――椎野きらり編「chapter4」――

瀬戸口氏のシナリオが「人間賛歌」などと評される所以である。
しかし、それでもなお、敗者であることが倫理的な優位へと転化するようなナルシシズムだけは、一貫して避けられていることは注目されてよいだろう。大切な人を失った喪失感から立ち直った主人公はこう言う。「多分、僕はもう大丈夫になってしまったんだ。とても残酷なことに」。ここに、敗北と喪失を自らのものとして受け取ろうとする意志を読み取ることが出来るだろう。

ユダヤ人を含む「被害者」の受難を想起することは、アーレントにとって倫理的な「優位」への反転をもたらすものではありえなかった。その苦難を思い出すことは、敗北というべき記憶とともに、この世紀を貫く「道徳的崩壊」の遍在化について認識を迫られることであった。……敗北の記憶が促す思考を、このような事態を現出させた断層の契機、すなわち公的空間の剥奪と追放と破壊と喪失という経験の層に分け入って、その現在の「記憶」を照射する歴史的な物語行為の意思へと変換するとき、その記憶の場所は、「敗北もたたかいとられた」という詩句が生きるような場へと転位するだろう。
――市村弘正『敗北の二十世紀』(ちくま学芸文庫112〜113頁)――

敗北主義者ではない以上、敗北を受け止めることそのものに価値があると言いたいわけではない。重要なことは、その敗北の経験を通して、いかに世界への批判的な視座を生み出すかである。
貧苦や病気や家庭問題によって生まれた敗北の場に踏みとどまり、その経験を含む場所から離れずに、 批判精神(「アナーキーの精神」)を形成する可能性の一端が、『キラ☆キラ』のなかに示されている。例えば、前回にも引用した

「あのね、世界には、絶対的に何かが足りないんだよ!みんなが、全員が幸福になるための、何かが足りないの!その足りないってことが作り上げた悲しみだとか苦しみが、別のつらいことの原因になってるんだよ!」
――石動千絵編「chapter3」――

という言葉は、まさにその敗北の場から紡ぎだされたものであるからこそ、きわめて重要な言葉であると言えるのではないだろうか。
(未完……ですが気に入らないので当分放置します)