哲学は軽くないよ

現代における哲学には、批判はあっても提案が見当たらないのだ。
大学で教鞭をとりサラリーを受け取る現代の哲学者たちは、あらゆることを論破できる存在に感じられる。はてブにも「ジジェクなら二行で論破できる」という記述があった。多分その通りなのだろう。
しかし、「ではいかがいたしましょうか」という問いを発すると、彼らはとたんに口をつぐむのだ。右も左も関係なく。
かつてはそうではなかった。プラトン孔子も、よきにつけあしきにつけ、まず「提案」があり、批判というのはあくまでその提案を補強するための過程だった。どちらの「理想」も現代人にアピールするとは思わないが、それはさておき「こうあるべき」を提案していたのは確かだ。その代わり、彼らは哲学者であることそのものに対して何の報酬も立場も与えられていない。

404 Blog Not Found:哲学の耐えられない軽さ - 書評 - 人権と国家

提案がない、対案がない学問を「軽い」と言われてしまうと、いわゆる「虚学」に分類される学問はみんな困ってしまうんじゃないかな……。もちろん通説に対して「より正しいであろう」対案を出して、その検証を行うことは基本ですが、小飼弾氏が言っているのはそういうことではないようですし。
リンク先ではジジェクの映画批評の話も出ていますが、批評は必ずしも作り手に「映画はこうあるべきだ」という提案をするために存在するわけではありません。あくまでも作品の受け手がより深く作品を「見る」ためにあるするわけで、それは、目の前に広がる世界をより深く「把握」するためにある哲学にも言えることでしょう。
そもそも「批判するなら対案を出せ」「提案をしろ」という類の批判は、テロ屋の論理に通じるものがあるので非常に危ういんじゃないかな、と。現状に不満があるなら行動しろ、そうでないやつは現状を追認していると見做す、という二分法……。他人を動かそうとする人は、改めて埴谷雄高の考えに耳を傾けてみるのも良いでしょう。

吉本隆明『家族のゆくえ』
  「クモの巣のかかったような部屋に引きこもっていたって革命家は革命家なんだと、明言した。そこまで言い切った人はいない。世界中にひとりもいないといってよかった。社会主義政権をとっているところはたいてい後進国だ。『やる』ことが重要だと教えられている。埴谷さんは、クモの巣のかかった部屋でゴロゴロしていたって永久革命なんだと言い切った、考えることが大事なんだと断言した。そんなことをいったのは埴谷さんが世界で最初だとおもう」

ついでに森博嗣からも引用。

森博嗣すべてがFになる』より、犀川創平の言葉
  「僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ」