「清浦子爵大命拝受」(『読売新聞』1914年4月1日)
第1次山本権兵衛内閣がシーメンス事件によって総辞職に追い込まれたのち、元老会議は貴族院議長の徳川家達を推薦。しかし家達はこれを辞退したため、元老会議は3月30日に枢密院議長の清浦圭吾を推薦した。31日、清浦はこれを受諾、組閣に入った。
「山県公の譎祚 徳川公売らる=政友会の猛烈なる反抗」(『大阪毎日新聞』1914年4月1日)
徳川家達の辞退から清浦圭吾の組閣に至るまでの経緯に関して、おそらくは清浦が政党を背景に持たないことへの反感も手伝い、ある種の陰謀説が持ち上がった。つまり、山県有朋徳川家達を推薦したが、家達が辞退することは最初から予想していた。しかし山県の意に反して家達は受諾も考えていたので、それに気づいた山県は徳川家の同族会議にも手を回し、家達が辞退するよう画策した、というものである。
「疑問の清浦内閣」(『北陸タイムス』1914年4月1日)
清浦圭吾は政友会の提起した文官任用令の改正を枢密院に斡旋するなど政党よりの人物とみられていたが、実際は山県有朋寄りの超然主義者である、という主張。

「元老会議七時間に亘る」(『大阪時事新報』1914年3月28日)「牡丹の間に嘆息の三老人」(『東京日日新聞』同日)
ジーメンス事件により第1次山本権兵衛内閣が総辞職したのが3月24日。その翌々日の3月26日には、後継の総理大臣について協議するための元老会議が宮中で開催されている。本記事はその元老会議の模様について報じたもの。周知のように戦前日本では、総理大臣の指名権は議会ではなく天皇に属しており、実質的には明治初期の大物政治家=元老によって決められていた。1914年当時の元老は井上馨西園寺公望山県有朋大山巌松方正義の5名である。ただし元老会議には井上と西園寺は病欠。
元老会議の会場は一定しないが、このときは宮中の牡丹の間で開催されている。まず元老の3人に対し天皇から時局に関するご下問を受け、熟議の上奉答する旨を言上。しかるのちに会議が行われる。このときの参加者は山県、大山、松方に加え、内大臣伏見宮貞愛親王渡辺千秋宮内大臣の5名。会議はむろん非公開である。

私語〔ルビ:ささやき〕は耳より耳へ伝へられる、要するに解決はつかぬらしい、午後五時三元老は皆自邸へ引き取つて了つた、さて其自邸の賑かさ、山県公邸には山県系の人物が公の帰りを遅しと待受けているし松方公邸も亦腕車や自動車が待つてゐる、大山公邸のみ割合に寂しいが政界の機微はなかなかさう早くは転々しない(『東日』)

「全国記者連合会」(『大阪朝日新聞』1914年3月24日)
3月22日に築地精養軒で開催された全国連合在京記者大会についての記事。この大会では山本権兵衛内閣の辞職を求める決議文が採択されている。興味深いのは決議文の以下の一節である。

後継内閣の組織は憲政の大義に則り現内閣と責任を共にせざる政派を基礎とするを当然とす

ここでいう「憲政の大義」は、ある内閣が倒れた際に後継内閣をどのようにして決めるかについての慣例、すなわち「憲政の常道」を指すと考える。一般に「憲政の常道」は「与党内閣が倒れれば野党が次に組閣する」というものとして理解されている。とすると、引用部にある「責任を共にせざる政派」とは野党(この場合は立憲同志会)を指すのだろうか?
事実、3月24日に山本内閣が総辞職したあとを継いだ大隈重信内閣では、立憲同志会が与党となっている。ただ、「政党」ではなく「政派」とされているのが気になる。桂園時代のように「衆議院の与党」と「貴族院の最大派閥」が交互に与党の地位を占めていた例もある。確定的なことは言えないが、当時「憲政の大義憲政の常道」として、衆議院の与党から野党への政権交代ではなく、桂園時代と同様、衆議院から貴族院への政権交代がイメージされていた可能性を指摘しておく。
なお、3月28日に開催された全国記者連合大会の決議文は以下。

一、組織さるべき新内閣は憲政の本義に則り薩閥及政友会と全然関係なきものたるべし
一、新内閣は国論の帰趨に鑑み政党を基礎とすべし
(『東京日日新聞』1914年3月29日)

「憲政の本義」と「政党を基礎とすべし」が直接対応するかは、微妙。

「発声写真の失敗 神田館のはクロノホン」(『小樽新聞』1914年3月23日)
札幌の映画館「神田館」では横浜から発声写真機(=発声映画=トーキー)を取り寄せ、特別興業を行う予定であった。しかし取り寄せた発声写真機は、エジソン発明の「キネトホン」であるはずが、フランスのゴーモン社発明の「クロノホン」、つまり詐欺にあったことが判明した。

元来我国に発声写真の輸入されあるもの三種あり即ち最も輸入せられしは今回神田に来れる仏国ゴーモン会社の「クロノホン」次は昨年東京浅草ルナバーク内みくにて紹介せられし「アンマトホン」及び最近東京に紹介せらたる〔ママ〕エゲソン氏発明の「キネトホン」にして〔中略〕「キネトホン」は発声器に蝋管を使用し居るを以て美氏の点まで発生し前者に比しやや進歩せるものの由なるが目下其「キネトホン」は大正博覧会余興場に於て開演中なり

キネトホンの発明は1913年。その翌年には日本に輸入されたことになる(記事中の「大正博覧会」は1914年3月20日から開催中)。ただし日本においてトーキーが商業化されるのは1920年代後半以降のことである。大正博覧会で披露されたものがいかなる内容であったかは不明(おそらくストーリー性のないショートフィルムだろう)。
日本においてトーキーはなかなか定着しなかったと言われるが、「アンマトホン」「クロノホン」など様々な種類の機材が輸入されていたことが本記事からは伺える。

出久根達郎『雑誌倶楽部』

私は雑誌が好きだ。本よりも断然雑誌派である。飽きっぽい私にとって、雑誌はいろいろ書いてあるところが良い。ひとつの記事を読んでいて、おもしろくなければ次の記事、次の記事、と飛ばし読みすることができる。雑誌はすぐ手に入らなくなってしまうが、それもまた雑誌の良さだ。雑誌のなかでも特に古雑誌が好きだ。10年後、100年後の人々にも読まれることなど雑誌は想定しない。そんな想定をあえて無視し、古雑誌を探して買う。後世に残すつもりがないからこそ、雑誌が書かれた当時の「今」がそこに詰め込まれている。
……などと普段から考えている私にとって、本書『雑誌倶楽部』は中々興味深い内容でした。

雑誌倶楽部

雑誌倶楽部

本書の内容は大正から昭和50年ごろまでの各種雑誌を(年代順でも、テーマ別でもない、それこそ「雑誌」的な詰め合わせ方で)紹介していくもの。『文芸春秋』『キング』『宝島』などのメジャーどころから、『新青年』『大衆文芸』などの文芸誌、『旅』『家の光』などPR雑誌、『実話雑誌』『犯罪科学』『丸』などの実録もの、『主婦之友』『婦人公論』などの女性誌、と幅広く取り上げられています。雑誌の成り立ち、編集者の来歴などを詳細に記述するの「ではなく」、雑誌に掲載された広告、写真、見出しのつけ方といった細かな部分に関心が向けられており、豆知識的な話が多いです。この本自体が雑誌っぽいというか。
戦後の『実話時代』なる雑誌を取り上げた部分では、著名な切腹(の歴史に関する)研究者である中康弘通氏が『実話時代』の読者欄で資料の提供を呼びかけていたことが書かれています。90年代ごろまでは「在野の歴史家」とでも言うべき人が多くいたのですが、そうした人々はこうした雑誌を利用して独自のネットワークを築き、資料を集めいたのではないか。そんなことを想像させられました。
あと興味深い部分をいくつか。

お手伝いさんの給料がどれほどであったか、明記された資料がなかなか見つからなくて、往生したことがあったが〔中略〕何のことはない、『婦人之友』のバックナンバーに当たればよかったのだ。実に正直な数字が、並んでいる。これで見ると、昔はお手伝いさんが習う裁縫の月謝は、主人持ちであったようだ。p105

積ん読」という言葉が、徳川時代に作られた洒落だ、と教えられたのが唯一の収穫である。〔中略〕教えてくれたのは、歴史学者尾佐竹猛、ヨタとは思われぬ。何しろこの人、本職が現代の最高裁判所に当たる大審院の判事なのである。p213-214

広告に関しては、昭和12年の『新青年』に掲載された「生殖器短小」「機能障害」を「真空吸引力と水治法」によって改善させる機械の広告がおもしろかったです。よく考えると、これって昔流行った(?)女性の胸を大きくする機械と同じ仕組みではないでしょうか。定期的に同じようなことを考える人が出てくるのか、それとも単純な応用なのか……。寡聞にして効果があったという話は聞かない。

「女学生の新しい心理傾向 夫婦共稼ぎといふ覚悟」(『東京日日新聞』1914年3月20日)
記事では学校名が伏せられているが、成女高等女学校の校長・宮田修へのインタビュー記事。最近の女子学生について、宮田は次のように述べている。教育者から見た当時の女学生の実態について興味深い話が続くで、半分くらい引用してしまう。

卒業後の理想に於ても従来はつまらない虚栄と云つたやうな謂はば戦争時代には軍人の妻になりたいとか、将た外交官夫人になりとか云ふやうな身分不相応な考えを持つて居ましたが、今では夫婦は共稼ぎをしなければならぬ者と云つたやうな考へを浮べるやうになりまして

青鞜社に集った「新しい女」の影響と、「新しい女」では(文筆業を仕事とした青鞜社とは異なり)生計が立てられないという認識について。

新しい女に就いてですか、夫は別に彼等所謂新しい女の平塚とか尾竹と云ふ女に対しては見習はうとはしませんが新しい考へには向つて居る様です〔中略〕現代の「新しい女」では生活が出来ないと考へて居るらしいです。

女学生間での文通について。

手紙交換の御話ですがかそれは確に女学生間にはあります。〔中略〕手紙交換の最も激しいのは三年頃です。それは少し世の中の事情でも判るやうになつて情の上にも多少の変化が来てセンチメンタルになつて来て居るから其の感情を何うにかして発表しやうと思つても自分より遠い父母とか目上の者には打明けるわけには行かないから遂に友人に打明けるやうになります。〔中略〕私の学校でも斯う云ふ事がありましたので露骨に責めずに一方倹約と云ふ意味で戒めた事もありました

「亭主は半陰陽 同性の婚姻は無効」(『新愛知』1914年3月18日)
半陰陽は両性具有、インターセックスとも呼ばれる。詳細はwikipediaを参照。
半陰陽 - Wikipedia
三重県の財産家・某氏は結婚しており息子もいたのだが、某氏が男女両性であると噂されていた。この年(1914年)の某氏の死後、親族は遺体を解剖し、某氏が「表面上一見男子の生殖器を備へ」ており当人も男性としての性自認を持っていたが「二の乳房及び骨盤、生殖器の組織は全く女性」であり、某氏の息子も妻の姦通による私生児であると主張。裁判所に「同性間には婚姻成立すべきものにあらず」、某氏と妻の婚姻は錯誤に基づく契約であり無効であると訴えた。
財産相続上の争いが主たる原因であると考えられるが、某氏自身の性自認がまったく無視されていること、裁判所もまた親族の訴えを認めていることなどが注目される。